原始仏教と大乗仏教

これも、ヤフー掲示板時代のヤフー掲示板での投稿です。

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相応部経典第2集因縁篇 第7篇 ラーフラの集成 第1節 眼

『ラーフラよ、あなたはこれをどう思うか。眼は常住であるか、無常であるか。』
『師よ、無常です。』
『では、無常であるものは苦であるか、楽であるか。』
『師よ、苦です。』
『では、無常であり、苦であり、変易するものを、「これはわたしのものである。これはわたしである。これはわたしの我である。」と見なすことは適切であるか。』
『師よ、そうではありません。』


眼に限らず、この定型文は原始仏典に非常に多く出てきます。

『無常であり、苦であるものを、わたしのもの、わたし、わたしの本体と見なしていいであろうか。』という文です。

この文章を見ると、どう見ても、無常・苦・非我 ですね。

私が、仏陀の真意は諸法無我でなく、諸法非我というのは、このような典拠からです。

 

 

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【私という中心がない】ということでは、無我でも非我でもいいのですが
仏陀が古層の仏典で盛んに言っていることが『自己を確立すること』であり
身体も心もすべて自分ではないと否定していく四念処観を一乗道とまで言っていること、
そして何より、仏教では【無我】としたために、仏、如来にも涅槃にも実体がないというようなところにまで曲がりくねってしまったこと、から、やはり仏陀の真意通り非我としたほうがいいと思っています。

たぶん、これから、仏陀を仏教の開祖ではなく、今まで作り上げられた仏教に捉われず人類最大の教師として探求していく潮流が出てくるとは思います。
それが数年後か100年後かはわかりませんが。

 

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<<第一結集で確定した言葉を絶対視してしまうとすれば、それはいつも観念に対して批判的なショーシャンクさん自身の考えとも矛盾することになると思います>>

 

あなたは私の『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。』という言葉を取り上げて上記のように言いますが、この言葉はsanさんの投稿に対しての回答です。
ここに投稿してくる人は、最初からの流れも見ずに、誰かの質問に対する私の回答の言葉の一部を切り取って、横からそれについて質問してくるので、非常に困ります。

例えば、この『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです』という言葉は、sanさんの『原始仏典と言っても大乗仏典と言っても、釈尊が死んでから何百年も経ってから文字にしたものなので、どれが釈尊が言ったことかなどわからない。』というような暴論に対しての回答です。

仏陀の死後直後に500人の直弟子で歴史上の仏陀の教えを確認し合ったのが第一結集であり、
第一結集で確認した言葉と後世に釈尊の言葉を聞いたことのないものが勝手に作り上げたものを『どちらも釈尊の死後何百年か経って文字にされたからどちらが釈尊の声だとは断定できない』などという無茶苦茶な論理に対する回答なのです。

その言葉だけを切り取って、『絶対視』していると言われてもそれも違います。
何度も言っているように、今は、歴史上の仏陀が何を言ったのかを探求しているのであって、
仏陀が言ったから正しい、仏陀が言わなかったから正しくない、ということを言っているのではありません。
これも何度も書きましたが、大乗仏教の人にはどうしてもわからないようです。

 

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<<「それは釈尊が言ったことではない」と言えるためには、「古層の仏典」の中に、釈尊が仰ったことの全てが、釈尊の意図通りに書かれているという前提がなければならないからです>>

 

仏陀の死後直後に、いつも傍にいたアーナンダをはじめ、直弟子500人が自分の耳で聞いた仏陀の肉声を間違いがないか徹底的に確かめていったのが第一結集です。
それを早い段階で文字にしたのが古層の原始仏典です。
大乗仏典は第一結集とか関係なく後世に創作されたものです。
原始仏典でも古層になればなるほど後世の夾雑物が少なくなり釈尊の肉声に近いものであるのは事実です。


<<『この法を説いても誰も理解できないだろう』と釈尊は思われたのだから、釈尊は「言葉」では伝えがたい法を伝えようとされたのでしょう。>>

 

成道のとき、なぜ釈尊は『この法を説いても誰も理解できないだろう』と思ったか、本当に知っていますか?
まずはそれから知ってください。
そして、梵天の勧めによってなぜ説こうと決意したのか、それも調べてから投稿してください。

今までは、全部それを自分で説明していっていたので、時間が膨大にかかってしまった。どうか、ちゃんと調べてから投稿してください。
あなたのいうように『「言葉」では伝えがたい』から説くのをやめようとしたのであれば、梵天の勧請があっても変わりませんよね。
言葉で伝えられないと思ったので説くのをやめようと思ったのであれば、なぜ、言葉で説いたのでしょう。

 

 

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<<ところで、ショーシャンクさんは大乗仏教の素晴らしさはわかっていると仰りながら、いつもこのように大乗仏教について否定的なこと、揶揄するようなことを書かずにはいられないようです。>>

 

 

私は、『大乗仏教』でなく『大乗仏典』は素晴らしい、と書いているはずです。
大乗仏典は、非常に意識の高い人が創作した芸術作品だと思っています。
バッハやマーラーやモーツァルトの音楽のようなものです。
モーツァルトの音楽をいくら聴いても悟りには達しないでしょうけど
しかし、意識が拡がった状態でモーツァルトの音楽を聴けばその本当の良さがわかるでしょう。
そのようなものだと思います。
白隠も若いころ法華経を『こんなたとえ話ばかりのもの』と捨ててしまいましたが
悟った後に何気に法華経を読んでいたところ号泣したと言います。


仏陀が目覚めを体験したあと(悟った後)、なぜ十二縁起をひたすら瞑想しなければならなかったのか、です。
これは仏教学者の間でも謎とされてました。
仏陀は何を悟ったのか、悟った後にもかかわらず十二縁起を瞑想する必要は何か、ということはわからなかったのです。

人それぞれ、自分に合った筏があるでしょうね。
あなたもお元気で大乗仏教の道を進んでください。