大乗仏教はなぜ興ったのか、これは仏教史上、最大の謎です。
かつての私のように、大乗仏教の国で生まれ育った人のほとんどは、あまり気にもかけないこと、謎とも思えないことでしょうけど。
これを謎と思える人は仏教史に非常に詳しい人を除くとまずいないでしょう。
しかし、仏教史が少しわかってくると、これほど不思議な現象はありません。
ゴータマ・シッダッタという偉大な教師が亡くなりました。
その教えを歪みなく後世に残すため、仏陀の死後数か月後に仏陀の肉声を聞いた500人の直弟子が集まり教えを確定しました。第一結集です。
第一結集で確定した教え、仏陀の肉声を比丘比丘尼たちはサンガで大切に伝えていきました。
それなのになぜ、いきなり第一結集によらない経典を勝手に作り出したのか、何のために?
それは大きな謎です。
この謎を解く鍵が、法華経にあります。
『ただ虚妄を離るるを名付けて解脱となす。それ実には未だ解脱を得ず。仏はこの人はは未だ実に滅度せずと説きたまう。この人は未だ無上道を得ざるが故に。』
『いま仏は我を覚悟して実の滅度にあらず。仏の無上慧を得て而して乃ちこれ真の滅なりとのたまう。』
『この学無学の人もまた各々自ら我見及び有無の見等を離れたるを以て、涅槃を得たりとおもえり。』
このような文言を見れば、つまり、大乗仏典を作っていた人たちは、『虚妄を離れただけでは無上道ではない』『我見や有無の見を離れただけでは涅槃ではない』と考えていたということです。
灰身滅智に大きく傾いていた部派仏教を批判し、『そんなものは仏陀の真意ではない。虚妄を離れた奥にもっと大いなるものがあるのだ』と叫んだのです。
仏陀は、涅槃に至った如来の死後はあるのか、つまり如来に存続する実体があるかどうか、については無記としました。
無記は『無』ではないのですが、どうしても、仏教は仏陀の真意を捉えることができず、虚無や断見、唯物論のほうに傾いていきます。
そのアンチテーゼとして大乗仏教は興りました。
仏陀の真意の復興運動として興ったのです。
初期大乗を経て、中期大乗になって、大乗涅槃経に至り、如来蔵思想となり、部派仏教の無常・苦・無我・不浄から、常楽我浄の大我を説くようになりました。
もちろん、部派仏教からは、『お前たちは勝手に経典を作って、外道の論を説く。非仏説だ。』という非難を受けます。
また、龍樹などは、縁起によりすべては無自性であり実体がない、として如来にも実体がないとしました。
仏陀は、如来に存続する実体があるだのないだのという論議は無記として、『私が説かなかったものは説かなかったものとして受け止めなさい』と言ったのにもかかわらず、縁起だからすべてのものに実体がない、としてしまいました。
仏陀の言った『無記』の真意はやはりどうしても伝わらなかったようです。