四諦は、苦・集・滅・道です。
【苦諦】 こは苦である。
【集諦】 こは苦の集起である。
【滅諦】 こは苦の滅である。
【道諦】 こは苦の滅に至る道である。
つまり、四諦とは、苦であるということ、苦の原因、苦の消滅、苦を消滅する方法について説かれた法であり、そのテーマは【苦】です。
四諦は苦について説かれたものです。
無明とは、四諦を知らないことです。
言い換えれば、苦を知らないということです。
苦であるということがわからないのを無明といいます。
苦というものがわからないために(無明)、行が生じ、識が生じ、名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 となるのが、十二縁起です。
老死は、愁(soka)・悲(parideva)・苦(dukkha)・憂(domanassa)・悩(upayasa)とともに挙げられており(縁起経)、つまり、苦の集積ということです。
こは苦である、ということが本当にわかったなら、無明が滅するのです。
そういうとほとんどの人は、『苦なんかわかっている。苦しいか苦しくないか、など自分が一番わかっている。』と思うでしょう。
確かに、死ぬほど苦しみを抱えている人はいます。自殺する人はなくなりません。
それでは死ぬほど苦しんで自殺する人は、仏陀の言う苦がわかっているのでしょうか。
自殺するほど苦しんでいる人には理由があります。
病気の苦しみ、経営する会社が倒産しそう、学校でいじめがある、職場でパワハラがある、失恋した、などです。
しかし、そういう人の苦しみは、病気が治れば、経営する会社が儲かれば、いじめやパワハラがなくなれば、恋愛がうまくいけば、なくなるものです。
仏陀のいう【苦諦】は
sabbe samkhara dukkha
すべての 形成されたものは 苦である
ということです。
四苦八苦は
生苦(Jāti dukkha)
老苦(jarāpi dukha)
病苦(byādhipi dukkha)
死苦(maraṇampi dukkha)
愛別離苦(appiyehi dukkha)
怨憎会苦(piyehi dukkha)
求不得苦(yampiccha dukkha)
五取蘊苦(pañcupādānakkhandhā dukkha)
このうち、ほとんどの解説で間違っているのが、生苦と五取蘊苦です。
かなり多くの仏教書や解説書が、生苦を『生きる苦しみ』『生活の苦しみ』と言っています。
これは本当は、『生まれる苦しみ』です。狭い産道を通って圧迫されながら母体と切り離されるときの苦しみ、誕生の時の苦しみを言います。
そして、四苦八苦の核心は、五取蘊苦です。
7つの苦が説かれた後、『要するに』『略説すれば』と言って説かれるのが『五取蘊苦』です。
苦を要説したものです。
pañcupādānakkhandhā dukkha を直訳すれば、
五つの執着する要素の苦しみ、ということです。
五つというのは、色・受・想・行・識 です。
執着する、というのは私の考えでは、2つの意味があります。
執着=渇愛=tanha によって、5つの要素が集まって仮合したという意味。
それと、五つの要素が集まることによって、『守るべき中心』という執着の核が出来たことを言います。
病の苦しみや老いることの苦しみなど様々な苦しみはあるが
『要するに』五蘊が集まって守るべき中心を形成したことが『苦』なのです。
ちなみに、五取蘊苦を五陰盛苦という人がいます。
五陰盛苦は、肉体の欲望が盛んになる苦しみ、などというとんでもない解説をする人が非常に多いのですが、全くのデタラメです。
五陰盛苦は、正確には五盛陰苦です。
五取蘊苦と五盛陰苦は、原語は同じpañcupādānakkhandhā dukkha なので
意味も同じです。
『要するに、五蘊が集まることが苦なのだ』という凄いことを言っています。
この言葉の力だけで、観の転換が起こる人には起こるでしょう。
それほど、深遠であり微妙である教説です。
仏陀の真意がねじ曲っていったのも仕方ないなと思わせるほど、私たちは顚倒しているのです。
肉体の欲望が盛んになる苦しみなどというデタラメが通説になっているのが、仏教用語には非常に多いです。嘆かわしいことです。