仏教学者の佐々木閑が、『仏教は、この世で行きづらい人や生きるのが嫌になった人のために説かれた』『病院のようなものだ』と書いているらしいので、それについて書きます。
全然違います。
仏典を見ればわかることです。
仏陀が森にいたときに、30人の若者たちが遊んでいました。その中の一人は遊び女を連れていたのですが、我を忘れて遊んでいるうちにその遊び女がかれらの財布などを取って逃げたのです。若者たちはその遊び女を探すために森を駆け巡ります。
仏陀が坐っているのを見て、『女を見なかったか?』と聞きます。
仏陀は言います。『女をたずねるのと、己をたずねるのとどちらが大事なのか?』
若者たちは『己をたずねることの方が大事です』と言います。
そこで、仏陀は理法を説き、若者たちは受戒します。
健康な若者たちで、仲間30人でわいわい騒いでいるのですから、生きづらい人でもなく、生きるのが嫌になった人たちでもありません。人生や青春をエンジョイしている人たちでした。
佐々木閑の認識は浅いですね。
それは仏陀が言ったdukkha=苦が、ほとんどの仏教者には理解できなかったからです。
たとえば、自殺するほど苦しんでいる人は、仏陀の言う『苦諦』が最もよく分かっていると思っている人が多いのです。
全然違います。
仏陀の言う『苦』はそうではありません。
たとえば、自殺する人は理由は様々ですが、そのほとんどは思うようにならないからです。
病気の苦しみ、借金の苦しみ、失恋の苦しみ、いじめの苦しみ、様々あるでしょうけど、病気が治ったら、借金がなくなって大金持ちになったら、失恋したと思っていた相手から求婚されたら、いじめがなくなったら、とたんに苦しみはなくなるでしょう。
楽しくて仕方なくなるはずです。
『一切皆苦』などと思いもしないはずです。
仏陀が説く『dukkha』=苦が人類には理解されずに来た理由です。