マニカナへの投稿文2

(2019年11月にマニカナで石飛教授と話した私の投稿部分を載せます。抜粋なのでわかりにくいと思いますが)

 


>「<これ>がないとき<これ>がない」、「<これ>が滅するから<これ>が滅する」という式によって滅するので、無明が滅するときには、とにかく諸行は滅することになります。


私が十二縁起で最も難儀しているのが『行』と『識』です。

「行」に
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
この3つの意味があって
龍樹や石飛先生は、3つの意味全部というご理解なのですね。
ただ、十二縁起を知的な理解だけではなく、歴史上の仏陀(この言葉を使うと誰かに過剰反応されそうですが)が行なったように、十二縁起を洞察し瞑想したいと思った場合、一つ一つの項目が定まってイメージできなくては瞑想するのが難しいと思います。

瞑想する場合、『行』が1、再生に導く三種の行為(業)  2、潜在的形成能力(行)  3、もろもろの形成されたもの(諸行)
のどの意味かで全く違う瞑想内容になります。
行為と志向作用(先生の訳を使わせていただきました)と事象すべて では、内容は全く違うと思います。

『五蘊の行と十二縁起の行はいずれも意識を生じる意志作用である』とある本に記述されていましたが、このあたりが鍵のような気がします。
瞑想をしていくうえで、私にはどうしても、『行』が行為や事象という解釈ではイメージできないのです。
確かに唯識論を借りれば、いいのかもしれませんが。



>「消滅する性質のものは、諸行である。怠ることなく完成しなさい」というのが、ブッダの最期の言葉ですね。諸行を完全に滅してしまえば、もはや二度と生まれることはありません。

 



仏陀最期の言葉のパーリ語は
vayadhamma sankhara appamadena sampadetha
ですね。

vayadhamma = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
sankhara = 行  事象  すべてのものごと 
appamadena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampadetha  = 行ず  成功する  成就する

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。
私は『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸に行じなさい。』と考えています。

 

 


仏陀の教えはインドの豊饒なフィールドにあり、決してそれまでのインドの思想を全否定したものではないと思っています。むしろ、その上に立って精神性を徹底したものだと考えます。
イエス・キリストが旧約聖書やユダヤ教を否定したわけではなくむしろ証明していったように。
『生まれによってバラモンではなく行ないによってバラモンなのだ』ということも、すでにバラモン教の中でも言う人がいたわけですから。
仏陀がそれまでの豊饒なフィールドを否定したわけではありません。


>「『罪』ではなく」というところが、すばらしいですね。私も、本当にそう思います。
罪を咎められると苦が増します。日本人は、古来、罪科も『穢れ』と考えてきた、というところに、日本人の智慧を見ますが、でも、これですと『苦』は生じないかもしれませんが、『恐れ』が生じます。その点、ブッダは、見事です。苦の滅を理想とするので、何も残しません。


本当にそう思います。罪ではなく苦ということで、罪悪感に囚われることがなくなりますし、より精神は自由になると思います。
ただ、反面、懺悔ということが罪を説くキリスト教や神道に比べおろそかになっていったきらいはあります。
もちろん仏教でも懺悔文はありますし、法華懺法はありますが、過去のデータを懺悔して消去するところが弱い感じはしてました。

しかし、十二縁起や四念処、七覚支を瞑想してみると、これは懺悔に通じるものがあると感じています。


>原始仏典の『大般涅槃経』は、ブッダの慈悲がほとばしる経典だと思います。ここから、阿弥陀仏が生まれてくると思っています。

大乗仏教は失われていった仏陀の真意の復興運動だったと思っています。もっと言えば、灰身滅智に傾いて失われた無量心(慈悲喜捨)の復興運動だったと考えます。色界の最下層まで貶められた四無量心を究極の境地に復権させたと思っています。私の勝手な解釈ですが。


>最期に語ることばも、比丘たちのことで頭がいっぱいなのだと思うのです。どうにかして、彼岸に渡そうという気持ちが、「衰滅していくものは行なんだよ」と念を押すようにして最期のことばとなっていったのではないかと思っています。


ここが先生の訳の難解な部分です。
衰滅していく『行』が意志作用、志向作用ということがまだよくわからないところです。

行=sankhara が『形成されたもの』という意味であれば
当然すべての形成されたものは生滅、衰滅していくのだから、

『お前たちの肉体もこのようにすみやかに衰滅してしまうのだから怠ることなく行じなさい』
あるいは
『私の肉体もすべての形成されたものと同じくこのように衰滅してしまう。このことわりを見て修行を完成させなさい』

という強いメッセージのように捉えているのですが
その場合はどちらも行=sankhara を『形成されたもの』としてます。

 

 

 

大乗仏教、大乗仏典の最も大きなテーマは、無量心、特に慈悲だと思います。
大日経は『悲』、浄土経典は『慈悲』、法華経もすべてを救おうとする働き、特に観音経は大慈大悲そのものだろうと思います。

仏陀在世のときは、無量心は究極の境地だったと思いますが、仏陀の死後、どんどん貶められていって、四無量心の瞑想では涅槃に至らず色界最下層どまりとまでされてしまいました。

また、弟子たちは、自分の師匠である仏陀は、今までと全く違う教えを説き今までの教えを全否定したという考えに極端に傾いていきました。
その過程で大いなるものを見失って行って、灰身滅智を理想としてしまったと考えます。

 

 

 

私の勝手な解釈では、
五根・五力が、三十七菩提分法の概説にあたり
三十七菩提分法自体が

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

という流れだと考えています。

そして、四念処・七覚支(七覚支の最初の念を四念処と考えます)を徹底して瞑想して初めて
慧が生じる。

その慧こそ、八正道の『正見』だと考えています。

つまり、八正道は八つの道徳項目などでは全くなく
顛倒した見解から180度転回して 慧=正見 が生じて初めて実践できるものだと考えています。

 

 

 >なるほど!ありうる解釈ですね。
確かに、理想のモデルケースとしてはそうあるかもしれませんが、現実には、順序はいくらか入り乱れるのではないでしょうか。


三十七菩提分法には、精進・念・定が重複して出てきますし、順序が異なることがありますから、その解釈には苦労します。



>おっしゃる通り、八正道は道徳項目ではなく、修行の道で、しかもブッダの推奨する道だと思います。が、ショーシャンクさまが思うより、もっと早く八正道にいくような気もします。

 

 

これはもう、それぞれの人の好きな解釈でいいとは思いますね。
自分に適した瞑想方法、修行方法でなければ何の意味もないのですから、人の数だけ解釈があってもいいと思います。

ただ、仏陀は、相応部経典において、『朝日が昇る時、先駆け・前兆となるものがある。それがあけぼのである。』という比喩を言って
八正道を始める時の先駆け・前兆として、戒の完成や意欲の完成、我の完成、見解の完成などを挙げています。
この記述からも八正道はかなり最終段階ではじめて実践できるものかなと勝手に思っています。


>それに、「顛倒」というのも、ものすごく頑固なもので、理論としてわかっても心底納得するには至難のワザだというのもあります。


これは確かにその通りですね。ただ、顛倒をしたままでは正見ではなく邪見になってしまいますし、パウロやフランチェスコのような180度の回心がどうしても必要な気がします。なにせ、人間は正見解からは180度顛倒しているのですから。