koboyuki (27.82.211.253)
ショーシャンクさんこんばんは。悟りには段階や種類があるように思います。仏陀の悟りは最高最上であり完全な悟りだと思います。近年の例えば、ヨガナンダさんなどの、ヒンズー教系の聖者の方々もおそらくは、仏陀の悟りのレベルまでは至っていないのではないでしょうか。昨今のスピリチュアル系の色々な修行法を実践する人たちの中にも、ある日突然周りの景色が異常に輝いて見え、小さな虫も花も人も生きとし生ける者すべてが愛おしく感じ涙が止まらなくなったとか、こういった現象は悟りのごく一部分を垣間見たに過ぎず、長くても数日もたてば元の自分に戻り以前と何も変わりません。ショーシャンクさんが仏陀の完全なる悟りを目指し、その道を発見出来れば、これはもう人類の歴史と未来を根底から覆す大偉業だと思います。 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。 スッタニパータ
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koboyukiさん、おはようございます。
仏陀の悟りが他の覚者と比べてどうなのかは私にはわかりませんが、
ただひとつ、確実に言えることがあります。
それは、仏陀は人類最大の教師だということです。
なぜなら筏=方法を残してくれたから。
他の覚者には筏がありません。
もっとも極端なのがクリシュナムルティで、方法とか道というものを全否定していきました。
よって『誰も何も変わらなかった』のです。
他の覚者にしても『ただ見る』『ただ気づく』『ありのままでいる』『自分などない』『一なるものがあるだけ』などというだけです。
筏がありません。
そうすると、そのように思い込んでそういう気分になることはできます。
一なるものである気分はとてもいい気分です。
しかし、日常生活に戻るとたちまち吹き飛びます。
仏教をかじった人はさかんに『無我』だの『空』だの言います。
『車が車輪やハンドルや座席やエンジンやいろいろな部品が集まってできているように、自分というのも仮のもので様々なものが集まってできているだけだから実体がない。無我だ。私などない。手も足も私ではない。』と言い回っている人も、足を轢かれて大けがをしたら、『私のお金』を使って、病院で治療を受けるでしょう。
すべての日常生活は『私』というもので営まれているのであり、いくら頭の上っ面で『無我だ。自分などない。すべてが私だ。』と考えても、『私の家』に住み『私の家』を掃除し『私のお金』で買い物をし、『私の包丁』を使って料理し生きているのです。
瞬瞬刻刻、私という中心を形成し続け渇愛を発し続け激流に押し流されている私たちが、筏なしにはどこにも行き着きません。
仏陀が残してくれた筏は人類の至宝だと思います。
歴史の堆積物に深く埋もれてしまった筏を今こそ掘り起こすべきだと考えます。