マニカナで、oさんが、私の質問に答えてコメントをくださっているようですので、このことに関しまして、感想を書きます。
>>ショーシャンクさまのご質問になんと答えたらいいか、難しくて答えられませんでした。
要は、仏教はテクストから読んで分かるものではないということに集約されます。
法を伝えるのは聖者だと釈尊以来の伝統があります。
文献学と伝統の教えの違いは体感しました。
要は仏教と歴史的批判的文献学の解釈で、演奏者の教えと、批評家の解釈みたいなものと思います。
原典・テクストを読んで自分で解釈するというのは、プロテスタントの方法で、ルネサンスに人文主義の影響を受けてプロテスタントが伝統でなく原典に帰れとしてきたものと思います。
さらに科学が成功すると、古典学は不要とされるようになり、その反動でマテリアルな文献学や歴史学、言語学が生まれ、その中で植民地主義と結びつき、文献学等を用いて原典批判して、現状を否定し我々のが土人より分かってるから、我々が統治すべきというヤクザ論理に使われてきました。
仏教学はそういうもので、二百年以上探求して、文献収集、目録化、原典批判などマテリアルな面で成果をあげましたが、仏教の目的である苦の開放にはほとんど役に立たなかったことが、資料研究は緻密だけど、苦の軽減にもほとんど役にたたないということが分かるのではないでしょうか?
象徴的なのは、真宗でプロテスタントの模倣したことで、効果がなくなったように見えることです。
これは清沢満之以降の『歎異抄』を強調した真宗教学に特徴的です。
同時代の七里恒順師などの教えが、妙好人を生み出していたことが、その反証に見えます。
最近流行したマインドフルネスやヴィパサナなどの方が、文献学より効果的ということにも現れていると思います。
さて、ここで、近代の日本において原始仏典が仏陀の直説に近いものとして見直されてきた流れに関して、キリスト教の宗教改革におけるプロテスタントを引き合いに出しておられます。
プロテスタントの立場と、原始仏教の見直し気運は、似ているところと全く違うところがあります。
たぶん、oさんは、プロテスタントを、伝統の良さを全部否定して、聖書という文献のみに価値観を置いた、ということで認識されているのだと思います。
ところが、ルターが起こした宗教改革は、プロテスタントという一宗派が立てられたというような小さなものではなく、人類の意識に一大変革をもたらせたものでした。
まず、それまで、聖書はラテン語で書かれていました。(旧約聖書の原典はヘブライ語、新約聖書の原典はギリシャ語ですが)
つまり、ラテン語を学んだ教会の権威以外の人は、聖書を直接読むことはできなかったのです。
イエス・キリストの教えは、神父や大司教など教会の権威の説法を通してしか聞くことはできなかったのです。
ですから、贖宥状(免罪符)を教会が乱発して、金さえ出せば罪が赦されるという教えを教会の権威が説いたとしても、それが正しいと思って一般大衆は免罪符を競って買い求めました。
ルターの宗教改革のおかげで、そしてルターが聖書をドイツ語に翻訳したおかげで、ドイツ国民はドイツ語で聖書を読めるようになり、それは各国に広がっていき、自国語で翻訳されるようになり、ラテン語の読めない一般の人たちが聖書を読めるようになったのです。
もし、それが間違いというのなら、いまでもカトリックの人は、ラテン語の聖書しか認めず、教会の権威を通してしか、キリストの教えを学ばないはずです。
ところが今では、日本のカトリック信者でも日本語訳の聖書を持っています。日本語訳の聖書のおかげでキリストの教えを直接読むことが出来るようになったのです。
しかし、キリスト教の歴史では、16世紀ですら、聖書を英語翻訳した人は死刑になっているのです。(ウィリアム・ティンダル(1494年または1495年? - 1536年)は聖書の英語翻訳を志すが受け入れられず、イギリス国外で翻訳・印刷した英語訳聖書(1526年)をイギリス国内に送り込むのだが、捕らえられて死刑になる。)
仏教には、キリスト教とは全く違う特異性が存在します。
キリスト教では、カトリックもプロテスタントも、聖書を最大に尊重します。四福音書を貶したり軽視するキリスト教者はいないでしょう。
また、キリストの死後、500年も経って、イエス・キリストの顔も知らない後世の人たちが新たに『キリストはこう言った』という聖書を作り上げることもありませんでした。
カトリックもプロテスタントも四福音書を最大に重視するのは、それがイエス・キリストの言葉を記したものだからです。
神父など教会の権威は、イエス・キリストの教えを正しく民衆に伝えるものとして尊敬されてきました。しかし、免罪符を買えば罪が赦されるというような、キリストが言ったこともない教えをキリストの教えだとする教会の権威も多くいたのです。
聖書が自国語で翻訳されるようになって、大衆が自分で直接聖書を読めるようになり、キリストの言葉を知るようになってはじめて、人間は神の前に平等であり、封建主義が間違いであるとわかってきたのです。
大衆が、自国語で聖書を読めるようになって直接キリストの言葉を知ることが出来るようになって、人類の意識は大変革を起こしました。
それまで、賛美歌を一般の信者が歌うことはありませんでしたが、ルターは、信者も参加して歌う賛美歌を自分でも作詞作曲しました。
信者みんなで歌う賛美歌は大流行し、これが後のバロック音楽を生んだと言われています。
仏教では、仏陀の言葉が間違って伝わらないように、仏陀の死後すぐ第一結集で教えを確定しました。
その、第一結集で確定した言葉はどういうものだったかを知らないまま、私たちは来ました。
それらの言葉は阿含経として伝えられては来ましたが、劣った小乗の教えだと卑しめられてきた歴史があります。
小乗では仏になれない、小乗の教えに従ってはいけない、と大乗仏典にははっきりと記されているのです。
これが、仏教の特異性です。
四福音書を否定したり貶したりするキリスト教者はいませんが、仏教では、仏陀の言葉を否定する現象が起きました。
いまになってやっと、そのような偏見から解放され、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかを探求できる時代になりました。
免罪符を買えば罪が赦されるというのがキリストの教えではないとわかったのは、ルターがラテン語を学び聖書を直接読むことができたからです。
聖書を自分で読めなかった大衆は、免罪符が正しいと思い込み、競って買い求めたのです。
まずは、歴史上の仏陀の言葉に直接当たらなくては、仏陀が何を言いたかったかはわかるはずもありません。
カトリック信者もプロテスタント信者も、まずは四福音書を読むように。