原始仏典から仏陀の真意を探った『仏陀の真意』に続き、なぜ今度は法華経を取り上げるのか、についてです。
今まで、部派仏教と大乗仏教は、対立関係にありました。
部派仏教は、大乗仏教を大乗非仏説といってそんなものは仏陀が説いたものではないと非難してきました。
大乗仏教は、部派仏教を小乗仏教と呼び、劣った乗り物だと決めつけ、極端な経典では、小乗、そして小乗の声聞は焼かれた種のように仏となることができないとまで言いました。
法華経では、小乗の信徒(声聞や縁覚の二乗)でも仏になれるとして授記が書かれていますが、四諦の法は声聞の修行法、十二縁起は縁覚の修行法として劣った小乗の修行法とされているように見えます。
原始仏典で説かれた仏陀の理法と法華経との関係が、いままでは、解き明かされてなく、原始仏典における仏陀の理法と断絶した解釈ばかりになっていました。
ところが、法華経は、本当は、仏陀の真意の復興運動、仏陀の理法の完全版という、本質があるのだというのが、『法華経の真意』を書こうと思っている動機です。
大乗仏典、特に、法華経を解き明かすのは、まずは、なぜ大乗仏教が興ったのかという歴史上の謎を解き明かさなければなりません。
とても不思議な現象だからです。
キリスト教と対比すれば、その不思議さが分かるでしょう。
イエス・キリストが十字架で亡くなってから、その言行は、四福音書という形で書き記され、公認されたものとなりました。
もし、キリストが亡くなって、500年もしてから、キリストの姿も声も知らない人たちが勝手に『私はこう聞いた』『キリストはこう言った』と言い始めたらどうでしょう。
そして、新しく『聖書』を作り始めたらどうでしょう。
その『聖書』には、『四福音書は劣ったものだ。この聖書が最も深遠な真理を説いた第一の書だ』と書かれてあったらどうでしょう。
例えて言うと、このような事が仏教の歴史で起こったのです。
まずは、これを直視しなければならないとともに、なぜそのようなことが起きたのか、そしてそれが中国日本などの伝播し大きく影響を与えるまでになったのか、という謎を解かないとその本質は分からないでしょう。
大乗仏教全体が極めて強烈な、部派仏教へのアンチテーゼです。
大乗仏教を興した人たちは、部派仏教のどこに反発したのでしょう。
大乗仏教は部派仏教への反発ではない、部派仏教を発展させたのだ、すでに原始仏典に説かれていることをより詳しく高度に語ったのだ、という人もいるでしょう。
しかし、極めて強烈な不満がなければ、第一結集で定まった正統的な仏典があるのに新しく経典を勝手に作り上げるようなことはしません。
大乗仏教を興した人たちは、部派仏教が仏陀の真意とかけ離れてしまったという強烈な思いがあったのです。
ここがわからなければ、大乗仏教がなぜ興ったのかがわかりません。
大乗仏教は、仏陀の理法、仏陀の真意の復興運動として興ったのです。
ですから、仏陀の理法、仏陀の真意と無関係な解釈をしてはいけないのです。
今までの大乗仏典の解釈は小乗仏教の否定を前提としていました。
しかし、大乗仏教を興した人たちは、部派仏教に対し、さげすんで『小乗=劣った教え』と罵ったのです。
自分たちこそが、仏陀の理法、仏陀の真意を説くものだという強烈な自負や使命感がありました。
ここを抑えなければ、仏教の全貌が見えてこない。
故に、どうしても、『仏陀の真意』に続き、『法華経の真意』を書かなくてはいけないと思っているのです。
今までの法華経解釈を並べることでしたら、あまたの専門家、仏教学者がすればいいだけです。
(続きます)