歴史上の仏陀は、矢を抜く最上の人でした。
苦と苦の消滅のみを説いてきたのです。
仏陀は、眼耳鼻舌身意とその対象の色声香味触法を『一切』としました。
そして、
一切は無常である
一切は苦である
一切は非我である
一切は燃えている
としました。
ですから、一切を厭離せよ、と言ったのです。
一切を厭離した後、何があるのか、については説きませんでした。
それを説くことは、『解脱に赴かず、涅槃に赴かない』からです。
しかし、仏陀が、一切を厭離した後の境地を説かなかった、つまり無記としたために、部派仏教は、何もない状態を理想とする灰身滅智の方向に行ってしまいました。
そのアンチテーゼとして興ったのが大乗仏教です。
大乗仏教では『虚妄を離れただけでは解脱ではない。もっと大いなるものがあるのだ。』と主張しました。
そして、大乗仏典ではさかんに大いなる悟りの世界を描きます。
華厳経では、いたるところで、仏の悟りの世界、例えば、蓮華蔵荘厳世界海などが説かれます。
歴史上の仏陀は形而上の世界を説きませんでしたが、大乗仏教では、形而上の世界を描き、大いなる悟りの世界を説いています。