キリスト教の本質を答えないと

アラシというのは、基本、承認欲求のみで他の人のホームページなどに書き込みします。

自分の意見にしか興味がない人たちです。

ですから、自分勝手で、他人の質問にまともに答えることがありません。

その掲示板の主催者が真摯に質問した場合は誠実に答えるのが、他人のホームページに投稿する最低限のマナーです。

 

また、メッターという輩がマニカナで貶しの言葉を投げつけていますね。

この人の言動を見ていると、だんだんクリスチャンというものに対して不信感が生まれてきます。

いまだに井筒俊彦を石飛先生が理解してないと主張してそれに我慢ができないようです。

しかし、この、メッターというのはオリと言ったクリスチャンなわけで井筒俊彦を教祖としているわけではないのですから、誰が井筒などを理解していようがしてないだろうがどうでもいいはずです。

 

それよりも、石飛先生は、メッターという者に対し、キリスト教の認識について正面から聞いています。これに何故答えないのでしょう。マニカナが仏教のホームページだからという逃げは使わないでくださいね。マニカナの主催者が真摯に質問しているのですから、正面から答えるのがマナーです。

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> キリスト教とイスラム教はちがうとしても、神の教えとしては同じであると考えることもできるということです。

けっこう、右顧左眄しますね。
イエスは使徒である、というイスラム教には大反対をしていたと記憶しています。
イスラム教は、キリスト教やユダヤ教も「啓典の民」として承認しています。しかし、キリスト教は、イスラム教にそれほどシンパシーがあるようには見えません。神の教えとして同じであると、メッターさまが考えるのか考えないのか、そこが問われています。

 

> キリストは100パーセントわれわれと同じ人間でもある。キリストへの愛は、神への愛と人間への愛どちらも含まざるをえない。

あれほど、イエス・キリストは「神の子だ」と三位一体を主張していたお人が、また、コロッとかわって、イエス・キリストを「100%われわれと同じ人間」、というわけですか?

 

 

>> キリストは100パーセントわれわれと同じ人間でもある。キリストへの愛は、神への愛と人間への愛どちらも含まざるをえない。


キリスト教で気になるのは、また、ここです。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」とあり、また「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」とあるはず。(「ルカ」10.27)

「人間への愛」としてしまって、よいのか。

ここに、メッターさまの「独自性」があるのではないか、と見ているわたしに、わかりやすい説明をしてください、ということです。

 

 

 

これについては、私も疑問です。

イスラム教はイエス・キリストを救世主と見ておらず、ムハンマドを予言した者の一人として見ています。十字架にもかからず、復活もしていないと考えています。三位一体の考えも否定します。

メッターさんは、これでなぜ、キリスト教もイスラム教も『神の教えとしては同じである』と思うのでしょうか。

まさか、仏教の筏の考えのように、キリスト教の十字架も復活も三位一体も筏で方便なんだと考えているのでしょうか。

それなら、メッターさん、あなたはクリスチャンではないですね。ただの井筒信者ということです。

メッターさんの文章を見て、本質が見えていないと、私はマニカナに書き込みましたが、それは仏教についてでしたが、キリスト教についても全く本質が見えていないですね。

ただの、読書と瞑想が趣味の、あちこちの本を切り貼りしているだけの人のようです。

 

このメッターという人がなぜあれほど井筒俊彦に執着しているのか、不思議に思う人も多いでしょう。井筒というただの著作者の一人にしか過ぎない者の他人の評価にクリスチャンがあれほどこだわる必要がどこにあるのか。

メッターという人は、自身、熱心なクリスチャンでありながら、キリスト教以外のアドヴァイタ、ノンデュアリティやマインドフルネス瞑想などへの興味や志向が断ちがたく、そこに若干の背徳感があるように思えます。キリスト教は異端に厳しく厳格で伝統的なキリスト者にはキリストが言ったこと以外は教えとして奉じるべきでないという考えの人がいます。

メッターという人は、キリスト教以外のものに惹かれる自分の性向を正当化する裏付けとして、井筒俊彦のメタ宗教、普遍宗教の考えに嵌まっているのでしょう。

ですから、あれほど執着しています。

井筒理論を否定されたら、自らの性向も否定されるからです。

もし、本気で普遍宗教を目指すのであれば、キリスト教の伝統的、正統的な枠は壊さないといけません。

イスラム教とキリスト教の違いは、まさしく、その宗教のコアな部分であるからです。

つまり、十字架にかかり復活したイエスキリストが旧約聖書に書かれた救世主だと信じることこそがキリスト教の真髄、キリスト教の本質だからです。

ところが、イエスは十字架にかかって死んでいない、当然、復活もしていない、救世主ではなく、後に出たムハンマドを予言した者の一人というのが、イスラム教です。

キリスト教の三位一体なんてとんでもない、というのがイスラム教の考えです。

 

メッターという人は、『キリスト教もイスラム教も神の教えとしては同じ』と書いています。

これを見ると、メッターという人はすでにキリスト教の本質である枠を壊しています。

井筒俊彦のメタ宗教のほうに傾倒しているようです。

だからあれほど井筒に執着したのです。