『縁起』ほど、歴史上の仏陀が使っていた意味とかけ離れた使い方をされている言葉は少ないでしょう。
縁起とは、それに縁って起こるもの、つまり原因のことです。
スッタニパータにこうあります。
650 生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによってバラモンならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。
651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。
652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。
653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--進み行く車が轄に結ばれているように。
655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。
これが最上のバラモンの境地である。
656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。
この業(行為)とは、身・口・意の行為です。
賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
この言葉は、非常に重要です。
賢者とは縁起を見るものであり、そして縁起を見るとは、行為(業)とその報い(結果)を熟知することと言っています。
つまり、縁起とは、行為を原因としてその報いを知ること、行為とその結果という因果関係を知ることなのです。
十二縁起とは、無明⇒行 という行為から、苦の集積という結果が生じるということを説き明かしたものです。
今の仏教では、この縁起を完全に唯物論的に解釈しており、物理的な因果とする説ばかりになっていますが、それは仏陀の真意ではありません。