高原さん、こんばんは。
そうですね。今までの仏教特に日本の仏教の根本問題がそこにはありますね。
どこまでいっても実体がないことになってしまった。
実体がないこと=空 ということにしてしまいました。
虚無論が蔓延ることになっています。
仏陀は、実体があるとかないとかの論議はしませんでした。
仏陀の言う空とは、生じれば滅するという意味です。
業やカルマ、因果についても、過去に犯した罪のようなおどろおどろしいものになっていきました。
仏陀の言うカルマ、業とは、行い、行為のこと、身口意の行い、すなわち、想いと想いによる言葉と想いによる身体的な行為のことです。
つまり、想いのことです。
仏陀は、想いによって人生はどのようにでも変えられると説きました。
身口意の行為によってバラモンになれると説いたのです。
想いの大切さを仏陀ほど説いた人はいません。
しかし、後世の仏教なるものは、想いをどんどんなくしていく方向ばかりになりました。
禅定至上主義です。
仏陀は出家してすぐ、禅定の最高峰である非想非非想定と無所有定を習得するために弟子入りしました。どちらの禅定もすぐに到達しましたが、『このようなものは智慧に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』として捨てて去ります。
それから6年間も、断食行や止息行の苦行に打ち込みます。
禅定にしても断食行や止息行の苦行にしても、思考、想い、身体の欲望をなくしてしまおうとする努力です。
しかし、そのようなことは無駄だと悟り、乳粥を食べて菩提樹下で徹底的な瞑想に入ります。
それで目覚め、7日間解脱の楽しみに住したあと十二縁起を徹底瞑想し、ついに『すべての疑惑をなくし』『悪魔の軍勢を破って立つ』ことができたのです。
ここのところを理解しなければ、仏陀の真意はわかりません。
仏陀が出家の直後に、禅定を2人の仙人に弟子入りして習ったように、定(サマディ)はバラモン教のものです。具体的には『ヨガ・スートラ』から拝借したものです。
仏陀が『このようなものは智慧に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』として捨てたものです。
しかしなぜか、仏教なるものは仏陀の死後、禅定至上主義になっていきます。
仏陀が説いた法は、今の仏教のような、実体もない、主体もない、主体性もない、自由意思もない、空論、虚無論では絶対にありません。
真逆です。
想いがすべてを作る、現象は影なのです。
ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。
もしも、汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
まるで、車を引く牛の足跡に、牛車の車輪が、ついていくように。
ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。
もしも、清らかな心で話したり、行なったりするならば、福楽はその人に付き従う。
まるで、影がその身体から離れないように。
しかし、今の仏教はぐったりと死んだものになり果てています。
仏陀はそんなものではない、真逆の、生き生きとした教えを説いているのです。
怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。
悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。
貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。
われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。
光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
今こそ、仏陀の本当の法を蘇らせなければいけないと思っています。