行為(kamma)によって  世界(loka)は起こる

 たき (126.157.115.6)  
行為が人々を世界を作るというのは、大雑把に言えば世界中の人が良い心で生きていれば悪いことは起こらないということでしょうか?
それならそれは即時に起こる訳ではないし、現状不可能なので理解が難しくなってしまうというように感じます。
行為が形を作るというふうに聞くと魔法のように物を作ったり天気を操作したり、良い心で生きているから起こる全てのことが自分にとってポジティブに捉えられるとか考えてしまいますが、決してそういうことではない。
という考えで良いでしょうか? また良い悪いについてですが、それはどのように判別なされるのですか?
確かこのブログで読んだのですが(違っていたらすみません)仏陀は相手の求めることが道徳で、それ以外が不道徳と言ったとして、その人が所謂悪人でしたら求めていることが決して良い事であるとは限らないと思いますが、それはどうでしょう?
前提として煩悩が払われた人々に向けた言葉ならば余りにも酷な話に思えてしまいます。
煩悩にまみれて自分が何を求めているのか理解できないのならば、その言葉は誰に向けて発せられているのでしょうか。

 

 

中部経典『ヴァーセッタ経』にこうあります。

 

生まれによってバラモンとならず 生まれによって非バラモンとならず

行為(kamma)によってバラモンとなり 行為(kamma)によって非バラモンとなる

 

行為(kamma)によって農民となり 行為(kamma)によって職人となる

行為(kamma)によって商人となり 行為(kamma)によって雇用者となる

 

行為(kamma)によって盗賊となり 行為(kamma)によって戦士となる

行為(kamma)によって司祭者となり 行為(kamma)によって国王となる

 

このようにこの行為(kamma)を あるがままに見る賢者らは

縁起をよく見る者であり 行為(kamma)と結果を知る者である

 

行為(kamma)によって  世界(loka)は起こり 

行為(kamma)によって  人々(paja)は起こる

有情(satta)は行為(kamma)に結ばれている 

進む車の楔のように

 

苦行により 梵行により 自制により 調御により

これによってバラモンとなる これが最上のバラモンである

 

三明をそなえ 寂静にして 再有を尽くしている者は

識者らの梵天・帝釈なりと このように知れ ヴァーセッタよ

 

 

註にこうあります。

『行為(業)によってそれぞれの行方において世界が起こるからである。一体誰がその創造主であろうか、ということである。』

 

行為(kamma)によって  世界(loka)は起こり 

行為(kamma)によって  人々(paja)は起こる

有情(satta)は行為(kamma)に結ばれている 

進む車の楔のように

の偈に関しての註にはこうあります。

『この偈にある世界(loka)も人々(paja)も有情(satta)も意味は同じであり、ただ言葉の区別があるに過ぎない』

 

lokaをここでは『世界』と訳していますが、『世間』と訳したほうがいいかもしれません。

『世界』というと、私たちの感覚では、地球全体のイメージです。

ここでは、むしろ『渡る世間』という時の『世間』のような、自らが赴いていく状況、環境と見たほうがいいでしょう。

つまり、生きとし生けるものが、自らのkamma(身口意の行為)によってそれぞれの行方にkammaに相応しい状況が起こる、ということです。

 

私が考える善悪は、いわゆる道徳で言う善悪とは全く違います。

人間の頭で拵えた道徳を基準に『善因善果』『悪因悪果』または『善因楽果』『悪因苦果』というように今まで説かれてきましたが、全く違うものです。

誰が見ても善人である人が、犯罪に巻き込まれたり、不幸な状況になったりすることがあまりにも多いとは思いませんか?

それは何故なのか、今までの仏教解釈では現実に起きていることには答えられない事が多すぎるのです。

せいぜい、『今世で善人なのにも関わらず理不尽にも殺されてしまった被害者は前世の悪業のせいだ』というような馬鹿馬鹿しい説明しかできなかったのです。

今世で誰かに殺されてしまうほどの『前世の悪業』とは、前世でその人が誰かを殺した、とでも言うつもりでしょうか。馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。

輪廻転生を認めず、前世はないという人たちは、さらにその説明ができないでしょう。

 

今までの仏教解釈が、現実世界の理不尽さを説明できてないことに私はずっと疑問を抱いてきました。それでは全く仏教というのは役に立たないではないかという思いが強くありました。

 

その回答は、このブログの中にもすでに書いてあります。

来年、自費出版する本にも詳しく書きました。

こう書いただけで本の宣伝だと言われるでしょうけど(笑)

M掲示板において、私は自費出版のことは自分から言ったことは一度もないのですが、かなりの人がわざわざ私のブログを熟読してくれているようで(笑)、自費出版のことをここで知ったのでしょう、『自費出版の宣伝をしている』と言われるくらいですから。

 

私は数年前、ヤフー掲示板哲学板に『仏教についてのひとりごと』というスレッドを立てました。

その2年後、ヤフー掲示板が株式板を除いてすべて閉鎖されるということになり、そのときにしまとりさんという方から、『閉鎖されても読めるように、ブログを作ってそこに保存して欲しい』と言われたので、このブログ『仏教についてのひとりごと』を作りました。

ヤフー掲示板の自分のスレッドに投稿した文章の保存が目的でしたが、新しく書き込むこともし始めました。

書き込むうちに思考の整理ができて、自費出版の原稿作りに大きく寄与してくれました。

400字詰原稿用紙300枚近くになりましたが、最初から原稿用紙200枚以上書こうとすると絶対に無理だったと分かります。

少しずつ、ブログに書き溜めていたから300枚近く書けたのだと思います。

ブログを作って保存するように薦めてくださったしまとりさんに感謝です。

 

 

 

>>確かこのブログで読んだのですが(違っていたらすみません)仏陀は相手の求めることが道徳で、それ以外が不道徳と言ったとして、その人が所謂悪人でしたら求めていることが決して良い事であるとは限らないと思いますが、それはどうでしょう?

 

いえ、私はそういうことを言った覚えはありません。

私はむしろ、その真逆に考えています。

仏陀は相手の求めることが道徳で、それ以外が不道徳と言った』というのは、どこから出てきたのでしょう。

逆です。それは、このブログで繰り返し書いています。

 

他に従属することはすべて苦しみであり

自由(主体性)はすべて楽しみである

                   (出典 Udana  Ⅱ,9)(中村元訳)

 

 

これが仏陀が言った言葉です。

 

パーリ語原典では

Sabbam   paravasam   dukkha.

Sabbam   issariyam   sukham.    

 

sabbam は『すべての』

paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』

dukkha は『苦しみ』

issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』

sukham は『楽しみ』

 

パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。

 

他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。

 

仏陀は相手の求めることが道徳で、それ以外が不道徳と言った』なんて、とんでもありません。

 

仏陀自体、国王である父親の切なる求めに逆らって、すべての責任を放棄して、すべてを捨てたではないですか。

妻も子も捨てたではないですか。

 

 

今の仏教解釈と、仏陀の真意は真逆です。

もし、他人の求めに従うことが仏教だという人がいれば、その人からは一目散に離れたほうがいい。

そのようなくだらない解釈ばかりしてきたから、仏教がぐったりと死んだものになってしまったのです。

部派に分かれる前、仏陀とその直弟子の時代には、仏陀の理法は活き活きと輝いていました。

 

それが今では、このありさまです。

やはり、仏陀とその直弟子の時代の仏法に還るべきですね。