スッタニパータにこうあります。
757 過ぎ去るものは虚妄なるものである。
758 nibbana(涅槃)は虚妄ならざるものである。
歴史上の仏陀は、仏や如来は死後も存続するのか、つまり仏や如来に実体があるのか、という質問には無記(答えない)としました。
それはイエスと答えてもノーと答えても、解脱に益するものでないからです。五蘊の一つ想を増やすだけでかえって自我を強めてしまうからです。
しかし、後世の仏教では、仏や如来も実体がないとなっていきました。
縁起をあてはめて、縁起であるからどのようなものにも実体がないとしてしまいました。
しかし、仏陀は、涅槃の境地は虚妄ならざるものとはっきりと言っています。
過ぎ去るもの、作られたものが、虚妄なのだと。
形成されたものも形成されたものからの解脱の境地も如来も仏もすべて虚妄にしてしまうのは、虚無思想です。白隠が最も怖れなければいけないとした黒暗です。
自我は作られたもの、形成されたもの、五蘊からできており、虚妄であり、実体などありません。
しかし、その自我を消滅させた後の無量の境地まで虚妄だとは言っていないのです。
仏陀はそれを無記としました。
『感興のことば』にこうあります。
不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。
作られざるものを観じるならば、作られたものから解脱する。