ターボーさんの質問④は、根本的な問いだと思います。
この問いは、仏教史を揺るがした大事件、大乗仏教の興隆にまで関わってくると思います。
歴史上の仏陀の真意が歪められたのは、実に仏教なるものが成立し仏教教団というものができあがった時から始まります。
歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)は仏教なるものの開祖になろうとしたことはなく、仏教教団を主催しているという意識は全くありませんでした。ひたすら、自らが悟った理法を伝え続けただけでした。
しかし、仏陀の死後、弟子たちが仏教教団を運営し始めたときから、仏教以外の教えに比べ仏教の優位性、独自性を強調するようになりました。それはどんどんエスカレートします。仏教以外のもの、特に、インドの精神フィールドそのものであったバラモン教を全否定したのが仏教であるというようになっていきます。
最古層のスッタニパータなどでは仏陀のことを『ヴェーダの達人』とか『バラモン』と呼んでいますが、その後に編纂された原始仏典には『尊師』などという尊称になりバラモン教の用語は排除されていきます。
歴史上の仏陀は、悠久のインドの豊穣な精神フィールドを否定などしていません。
むしろ、世界でも最高峰のインドの精神文化を極限まで高め、より霊的精神的に磨き上げ、それまでの聖者たちでは届かなかった境地まで到達したと考えています。
インドの高度な精神文化の土壌がなければ、ゴータマ・シッダッタは世界最高の教師にはなっていなかったでしょう。インドの精神的な土壌は世界でも群を抜いています。
特に、ヤージュニャヴァルキヤには大きな影響を受けていると考えています。
ヤージュニャヴァルキヤによれば、自己=アートマン=ブラフマン は、存在の根源であり、絶対の主体です。
それは認識の主体であるが故に、けっして認識の対象にはならないのです。
ですから、認識されることはなく、認識の対象を否定していくことによってしか到達しないものです。
『~に非ず ~に非ず』としかいいようのないものが自己です。
仏陀はまさにこの考えを自分独自に推し進めました。
そして、『形成されたものは無常である(生じたものは滅するものである)無常であるものは苦である。無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体と言っていいであろうか。』と悟ったのです。
つまり、明らかに『非我』です。形成されたものを私ではないと言っているのです。
これは、ヤージュニャヴァルキヤの言っていることと同じです。
ところが、弟子たちは、この『非我』を『無我』としてしまいました。
無我つまりアートマンがない、自己がない、主体がない、実体がない、とないないづくしになってしまいました。
無我の考えが仏教の全体を覆う考えになったので、瞑想も思考をとにかくなくしていくという無思考型瞑想全盛になりました。思考がなくなれば万事解決というわけです。
仏教は灰身滅智の方向に向かいます。
そういうとき、『そんなものは仏陀の真意ではない。』と叫び声を上げたのが大乗仏教です。
『今までの仏教は、一切の諸法は皆空寂にして無生無滅無大無小、このように思惟して喜楽を生ぜず、これを究竟なりと思っている。長夜に空法を修しているだけだ。』と叫び声を上げたのです。
しかし、その大乗仏教も、龍樹という天才が現れ、縁起も空も仏陀が言った意味とは違う龍樹独自の教説になっていきました。
ですから、いま、仏教の影響を受けた教えはすべて、絶対の主体を説こうとせず、その絶対の主体の創造性や意志や想いの力も説きません。
灰身滅智です。
人間にとって最も大切な、創造の主体、自由意志を否定する考えが蔓延っています。
上座部仏教も大乗仏教も無我説によって仏陀の真意から離れてしまったと感じます。
空一辺倒の一元論に嵌まってしまうと、現実遊離、現実逃避へと向かいます。
百丈野狐の公案を思い出してください。
空一辺倒の不落因果を言った僧は、間違っていたために五百生、狐に生まれ変わりました。
しかし、不昧因果も未だしです。
故に、無門は、『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのです。
不昧も不落も大間違いだと。
落因果でもなく
不落因果でもなく
不昧因果でもない。
まさしく、自らが因であることを徹底的に気づかなければいけないのです。
自らが因であることこそが、自由です。
自らを原因とする、自らに由る、のが自由です。
仏陀は、kamma(身口意の行為=想い・想いに基づく言葉・想いに基づく身体的行為)がすべての因と言いました。
自らが因なのです。自由なのです。
それをねじ曲げてしまったが為に、『悟ったけれども、悟る前と何も変わらない。目は横についていて鼻は縦についているとわかっただけだ。』などというのが悟りとなってしまいました。
『歴史は絶対精神の自己展開である』という言葉があります。
そして、絶対精神の本質は自由であるが為に、自由へと向かっているのです。
その絶対根源の力に目覚めないような教説、虚無思想からは私は一目散に逃げます。