筏の喩え、蛇の喩えの意味

石飛先生が、マニカナで次のように書かれていました。私の名前が出ていることもあり、これにつき、コメントします。

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私は、この「蛇喩経」について、ふつうの解釈よりもっと非常に厳しいことが言われているのではないかと思っています。
以前、ショーシャンクさまと話した時、ちらっとそのことをあげてみましたが、ショーシャンクさまは何も特別な反応をされませんでした。

「蛇喩経」の中で、こう言う部分があります。ブッダのことばです。
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比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。
あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。
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よく読むと、「筏の喩え」は法として、渡るためにブッダが説いたもので、執っておくためではない、とあります。諸法であっても、捨てよ、とあって、非法ならなおさらである、となっています。
つまり、比丘や修行者であっても、常に「渡っている」、つまり、修行中だと言えるわけではない、と言っているようにも聞こえます。そういう時には、法は捨てていなさい、と言っているように聞こえるのです。
「筏の喩え」ですと、まだ有学のものであれば、法をあれこれいじってこねくりまわしても、まだ「渡っていますから、法はもっていていいはず」と言えそうですが、実は、そういうことは許されないんじゃないかと、読めてきます。
テーラワーダの信者さんや行じている比丘たちも、修行や実践に関わらないでいるときは、法は捨てていなければならない、と言っているのじゃないでしょうか。たとえば、仏法を振りかざしたりするな、という戒めのようにも聞こえるのです。
悟った後捨てるのはもちろんのこと、かりに修行中の身であっても、修行以外のことをしている時に、法をもて遊んではいけない、とか、そういうことも言われているように思えてきます。
大乗では「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」の部分は肝に命じてきたように思われます。空の思想が作用しているからではないかと思っています。

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私は、前に、マニカナに次のように投稿しました。

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もう一度、読み返してみました。
蛇の喩えも筏の喩えも『渡るためであって、捉えるためではない』ことを言うための喩えであることは確かのようです。
法を学ぶ目的の重要性を説いています。
真摯に涅槃を求め、向こう岸に達するために学ぶ者たちは、法の意味を慧によって考察する。
しかし、愚かな者は、経典を、他者を非難するために学ぶ、とあります。
蛇の喩えも筏の喩えもこのことを第一に言いたくて説いたようです。
『渡るため』というのは、真摯に涅槃を求め、解脱に到達するために、ということです。
『捉えるため』というのは、経典の教えを自慢のため優越感のため、上から目線で他者を否定するために、誤って把握する、という意味です。
そのために、蛇を胴体か尾のところで捕まえることになる、と言います。
この喩えも巧みで、慧によって蛇の首を捕まえる者と誤って胴体や尾のところを捕まえる者とを対比してます。
経典を学んでも、慧のある者は、その本質、その要点、その核心を見抜きます。まさしく蛇の首を捕まえます。
しかし、他者を非難し否定し優越感に浸るために経典を把握する者は、どうでもいい言葉の端々を捕まえて鬼の首を取ったように非難します。蛇の尾をつかむということです。

アリッタ比丘は、『在家の奴は、五種妙楽を受けながら預流者にも一来果にも不還果にもなっている。それなら女性を見ても触ってもいいはずだ。それらのことは障害にならずいいはずだ。』というようなことを自分で結論づけ、仲間たちにもそう説いて回っていたようです。
明らかに非法、悪法です。
その非法を自信満々で、仲間たちに上から目線で優越感に浸りながら説いていたのでしょう。
『力により執着によって固持し、主張した』とあります。

これが、この2つの喩えの背景です。
この2つの喩えを説いた後に、仏陀はこう言います。
『このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。』
それから五蘊非我が説かれます。
つまり、最終的には、仏陀の諸法も五蘊非我として捨てていくものだということですね。
アリッタ比丘のように悪法を捉え捕まえ執着し自我としてはいけないことはもちろんだけれども
仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。

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さて、仏陀が言った法や喩えを見る場合、その法や喩えが説かれた背景や状況を正確に把握しないとその真意はわかりません。

 

この喩えが説かれた背景にはアリッタ比丘の行状があります。

アリッタ比丘は、法の解釈を捻じ曲げ、力により執着によって固持し主張した、のです。

愚かな者は、経典を、他者を非難するために学ぶ』と言われている、そのままです。

 

蛇の喩えも筏の喩えも、同じ目的のために説かれています。

『渡るためであって、捉えるためではない』ことを説くためです。

渡るためというのは、真摯に涅槃を求め向こう岸に渡るために法を学ぶということです。

捉えるためというのは、教えを自我に取り込み執着し、他人にマウントを取り、経典の教えを自慢のため優越感のため、上から目線で他者を否定するために、誤って把握する、という意味です。

 

石飛先生は『大乗では「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」の部分は肝に命じてきたように思われます。空の思想が作用しているからではないかと思っています。』と書かれていますが、そうは思いません。

大乗仏教でも部派仏教でも原始仏教でもキリスト教でも、あらゆる宗教宗派は何も変わりません。

どの宗教であれ、宗教人が、自分の宗教の優位性を主張しマウント取ることがいかに多いか、です。

それは、ヤフー掲示板の宗教カテゴリーでも見てきましたし、マニカナでも、メッターさんや春間さん、芳和さん、ミチオくんを見れば一目瞭然です。私もそうかもしれません。

まだ私は自分が渡っていないことを自覚していますし、渡るために学ぼうという意識は多少なりともありますが、すでに自分が渡っていると思い込み、人に上から目線で教えてやろう、マウントを取ってやろう、否定してやろう、という人がいかに多いかを見れば、大乗、部派、キリスト教関係ないことが分かります。

 

そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。』というのは、筏の喩えを理解し、法は筏のように渡るためであり渡ったら捨てるべきと言ったのです。

ましてや、悪法についてはなおさらのことです』というのは、善法であっても最終的には捨てなければならないのですから、悪法などは抱えていることなどもってのほかです、という意味です。

 

あるいは、仏陀の説いたもろもろの法であっても捉えるため、つまり自慢のため優越感のため他者非難のために使ってはならず、非法悪法であればなおさらそれを抱えて自慢や他者非難のために使ってはいけない、ということです。