誰にも依らず仏陀の言葉に向き合う

 たき (153.193.67.30)  
確かにそうですね。寺などに行ってちゃんと対話してみたいと思います。
しかし、仏教の教義についてここまで詳しく書いてくれるブログは本当にありがたいです。
私の中の多くの疑問に答えが出たのも事実です。
これからも拝見させてもらいます。
 
 

 

ありがとうございます。

そう言っていただければ、このブログに書くことがほんの少しでも誰かの役に立っていると思えてうれしくなります。

もちろん、自己満足に過ぎませんが。

まあ、自分でもかなり奇抜で風変わりなことばかり書いているなと言う気になることもあります。

ただ、仏教の定説とされていたことが、仏陀の真意かどうかはわからないということは伝わっていけば、各人がご自分で仏陀の真意を探求しようとするきっかけになるとは思います。

そのきっかけになって、自分の頭で考える人が多くなればいいなとは思います。

 

マニカナで、『プロテスタントの手法だ』と書いてきた人がいますが、キリスト教においてプロテスタントは非常に大きな意味を持っています。

それまでは、聖書と言えば、母国語はなく、一般の庶民はもっぱら教会の聖職者からキリストの教えを聞かなくてはいけなかったのです。

教会の聖職者を通さず、個々人が母国語の聖書を読んで、イエス・キリストと直接向かい合うという画期的な方向転換を成し遂げたのがルターです。

教会の聖職者の解釈が正しいとは限りません。実際、悪いことしても善行によって天国に行けるけどその善行の最たるものは教会への寄付だという理論で免罪符を販売していました。

キリストが言っていなかったことが後世の解釈によって構築されていくのは、よくある話です。

 

いま、読もうと思えば、誰でも仏陀の言葉に向かい合うことができます。

そして文献学の発展により、最も歴史上の仏陀の肉声に近い仏典も明らかになっています。

こんなにいい時代は今までなかったと思います。

仏陀が本当に言いたかったことを、仏陀から遥か後世の宗祖たちの解釈によらなければいけないなんて、だれが決めたのでしょう。直接、仏陀の言葉に向き合えばいいだけだと思います。