如来は大海のようなもの

中部経典『火ヴァッチャ経』には、十無記について説かれています。

また、それに関連して、ヴァッチャ遍歴行者は、仏陀に『心が解脱している比丘はどこに生まれかわるのでしょうか?』と聞きます。

仏陀は答えます。

 

如来について述べようとする場合、色によって述べることはできますが、如来にはその色が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものになっています。

ヴァッチャよ、如来は、色という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。

『生まれかわる』ということは相応しくありません。

『生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわらないし、またと生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。

 

如来について述べようとする場合、受によって述べることはできますが、如来にはその受が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものになっています。

ヴァッチャよ、如来は、受という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。

『生まれかわる』ということは相応しくありません。

『生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわらないし、またと生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。

 

如来について述べようとする場合、想によって述べることはできますが、如来にはその想が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものになっています。

ヴァッチャよ、如来は、想という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。

『生まれかわる』ということは相応しくありません。

『生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわらないし、またと生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。

 

如来について述べようとする場合、行によって述べることはできますが、如来にはその行が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものになっています。

ヴァッチャよ、如来は、行という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。

『生まれかわる』ということは相応しくありません。

『生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわらないし、またと生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。

 

如来について述べようとする場合、識によって述べることはできますが、如来にはその識が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものになっています。

ヴァッチャよ、如来は、識という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。

『生まれかわる』ということは相応しくありません。

『生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわり、また生まれかわらない』ということは相応しくありません。

『生まれかわらないし、またと生まれかわらないのでもない』ということは相応しくありません。

 

 

 

ここにおいて、仏陀ははっきりと、如来は、深遠で無量であり、大海のようなものだと言っています。