有名な毒矢の喩えが出てくる仏典が『小マールキヤ経』です。
そこで『十無記』も出てきます。
その中の4つは、tathagata が死後も存在するかどうかという問いです。
tathagata は死後存続する
tathagata は死後存在しない
tathagata は死後存在し、また存在しない
tathagata は死後存在しないし、また存在しないのでもない
tathagata は普通に訳すと、如来のことです。
ところが、片山一良の註では、
tathagata とは、有情(satta)のことである、とあります。
しかし、それはないでしょう。
有情(satta)であれば、死後存続することは、仏陀が繰り返し説いていることだからです。
有情(satta)はすべてその想念=kamma のままに死後天界にも悪趣にも赴くと言っています。
ここで、マールキヤプッタがどうしても仏陀に答えてほしかったのは、『私という中心』を消滅させたtathagata=如来は、死後存在するのかどうか、ということです。
つまり、形成されたものをすべて非我と見極めたあと、その奥に何かがあるのかそれともただの虚無なのか、ということです。
しかし、これについて、仏陀ははっきりと『無記』=答えないと言っています。
tathagataを有情と訳してしまったら、この問いは意味をなさなくなってしまいます。