中部経典『小マールキヤ経』

中部経典の第63は、『小マールキヤ経』です。

 

有名な『毒矢の喩え』が出てきます。

 

マールキヤ尊者の心に、次のような考えが生じます。

いくら聞いても仏陀が回答せず、捨て置かれている問いがあり、どうしてもその回答を得たい、回答が得られなければ還俗しよう、という考えです。

 

その問いとは、

 

1、世界は常住であるのか。(この世は永遠、つまり時間的に無限であるのか)

  sassato loko 

  世界は無常であるのか。(この世は時間的に有限であるのか)

  asassato loko

 

2、世界は有限であるのか。(空間的に有限であるのか)

  antava  loko

      世界は無限であるのか。(空間的に無限であるのか)

  anantava loko

 

3、霊魂(jiva)と肉体は同じであるのか。

  霊魂(jiva)   と肉体は異なるのか。

 

4、如来(tathagata)は死後存在するのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在し、また存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないし、また存在しないのでもないのか。

  

これらの質問について、知っているのであれば解答してください、知らないのであれば『知らない』と言ってください、とマールンキヤは仏陀に迫ります。

 

仏陀は、

『私はあなたに言いましたか。〈梵行に努めなさい。これらの解答をします〉と。』

 

そして、毒矢の喩えを説きます。

 

ある人が毒矢に射られたとします。

『私は、私を射た人が王族なのか、バラモンなのか、庶民であるのか、わからないうちは矢は抜かない。』

『私を射た矢が長弓であるのか、石弓であるのか、わからなければ矢は抜かない』

『私を射た弓の弦について、樹のものか竹のものかがわからないうちは矢を抜かない』

『私を射た矢の柄がわからないうちは、矢を抜かない』

と言っていたら死ぬであろう。

 

 

『世界は常住である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『世界は無常である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

『世界は有限である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『世界は無限である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

『霊魂と肉体は同じである』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『霊魂と肉体は異なる』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

『如来は死後存在する』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『如来は死後存在しない』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

私によって解答されてないものは解答されないものとして受け止めなさい。

私によって解答されているものは解答されるものとして受け止めなさい。

 

 

1、世界は常住であるのか。(この世は永遠、つまり時間的に無限であるのか)

  sassato loko 

  世界は無常であるのか。(この世は時間的に有限であるのか)

  asassato loko

 

2、世界は有限であるのか。(空間的に有限であるのか)

  antava  loko

      世界は無限であるのか。(空間的に無限であるのか)

  anantava loko

 

3、霊魂(jiva)と肉体は同じであるのか。

  霊魂(jiva)   と肉体は異なるのか。

 

4、如来(tathagata)は死後存在するのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在し、また存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないし、また存在しないのでもないのか。

 

これらの問いは、私によって解答されていません。

 

それでは、何が私によって解答されているのか?

 

『これは苦である』

『これは苦の生起である』

『これは苦の滅尽である』

『これは苦の滅尽にいたる道である』

 

これが私によって解答されたものである。

なぜ、これが私によって解答されたのか?

 

これは利益を伴い、かれは厭離のためになり、離貪のためになり、滅尽のためになり、寂止のためになり、勝智のためになり、正しい覚りのためになり、涅槃のためになるからです。