中部経典『アッタカ市人経』

中部経典の第52は、『アッタカ市人経』です。

 

アッタカ市の資産家ダサマが、アーナンダに質問します。

 

『釈尊は、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法を説いておられるのでしょうか。その一法とは何でしょうか。』

 

この問いに、アーナンダは、『これが一法です』と11の法を挙げます。

 

ここに、比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

かれはこのように観察します。

『この第一の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第二の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第三の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第四の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この慈しみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この憐れみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この喜びのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この平静のある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に色の想を超え、感覚的反応の想が消え、種々の想を思惟しないことから、『虚空は無限である』として、空無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この空無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

比丘は、完全に空無辺処を超え、『識は無限である』として、識無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この識無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』として、無所有処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この無所有処も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

アーナンダがこの11の法を説いたときに、ダサマは言います。

『私は一つの不死の門を探しながら、一度に11の門を聞くことにより得ました。たとえば、人の家に11の門があり、その家が焼けるとき、かれはいずれの門によっても自己を安全にすることができます。ちょうどそのように、私は、11の不死の門のいずれによっても自己を安全にすることができます。』