日本仏教はどこに行き着く?

マニカナで、相変わらず芳和さんが大活躍中ですが、そこに日本仏教の問題点が浮き彫りになっていると思えますので、それを取り上げてみたいと思います。といっても、芳和さんの投稿は仏教解説書のコピペがほとんどですが。

 

これも松原泰道の本からの引用のようですが、

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栄西と並ぶ日本の禅僧の開祖・道元は、涅槃経の「一切衆生・悉有仏性」を、一般に返り点をつけて、「一切の衆生は、悉く仏性あり」と読むのを「一切衆生悉有仏性」と棒読みします。
一般読みした場合の「一切衆生は悉く仏性あり」は、〈生命あるものはすべて仏性を具えている〉ということですが、「一切衆生 悉有仏性」と棒読みすると、〈生命あるものの存在そのままが仏性現成(仏性がありのままに現れている)〉となります。
道元によれば「一切の衆生のほかに特別に仏性を保有するものはない。したがって一切の衆生悉くが仏性現前の存在としてある、ということになります。
言い換えると「存在するもの」と「仏性」を区別することなく、「存在即(そのまま)仏性」ということになるので、仏性が広く深く理解されます。

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この本にあるように、もし本当に、道元が、一切衆生悉有仏性を『生命あるものの存在そのまま仏性がありのままに現われている』と読んだのであれば、道元は天台本覚思想から一歩も抜け出ていません。

 

そうではなく、道元は、一切衆生悉有仏性を、『一切は衆生なり 悉有は仏性なり』と読んだのでしょう。

 

道元は、衆生もとより仏性を具足せるにあらず、と言っているのですから、個々人がそれぞれ仏性をもっているという考えには反対なのです。

道元の著作のすべては、全体作用で貫かれているのでしょう。

これは、『一切は衆生なり 悉有は仏性なり』と読まなければいけないのであって、本当に道元が『生命あるものの存在そのまま仏性がありのままに現われている』と読んだのであれば、それはただの天台本覚思想です。

また、本当に徹底するなら、『悉有の一悉を衆生という』という言葉は、道元にしては全体作用から離れて理屈づけたような感じです。

『一切は衆生なり 悉有は仏性なり』を徹底させてこそ道元でしょう。

 一切=衆生=悉有=仏性 としてこそ、道元です。

 

ただ、そこまではいいのですが、残念ながら、大乗仏教には筏がない。

道元にとって坐禅は筏ではありません。

只管打坐は、修行ではなく仏の姿だということでしょう。

かたくなに、因⇒果 修行⇒悟りという順序を嫌う、これは日本仏教が天台本覚思想の影響を強く受けているからだと思っています。

 

 

次に芳和さんは自分の考えでこう書いています。

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ここには漢語の文法のこだわりはない。道元の「見地の深さ」においての読みである。
私は『涅槃経』を音読して、「十二因縁はそのまま仏性なり」と深読み(読み換え)、
十二因縁という「迷いの存在の苦悩」から解放された。

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十二縁起を深読みしたらそのまま仏性らしいのですが、十二縁起とは何かもわからないのに無理矢理それを仏性と『深読み』して、苦悩から解放された気分を味わうのは、濁流に流されながら『自分は解放された』と叫んでいるようなものです。

 

次の投稿で、輪廻には涅槃といかなる差異もない。涅槃には輪廻といかなる差異のない

という龍樹の言葉らしいものを書いています。

輪廻と涅槃にいかなる差異もないのであれば、命がけで涅槃を求めた釈尊は何だったのでしょうね。

 

こういう文章の数々を見ると、日本仏教はどこにも行き着かないのではないかと思ってしまいます。