野狐の身を脱したのはなぜ?

たーぼー (126.35.157.250)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 下の投稿は例のクリッシュナムルティ 禅ブログに私が書いた文章なんですが、これって牛過の公案の答えとしてどうですか? 大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ これは曹洞宗の有名な禅僧である澤木興道老師の言葉ですけど、そもそも大乗仏教の道を選ぶのは究極の主体的な意思なんですよ。「おのれ未だ渡らざる先に、一切衆生をわたさんと発願し」この発願こそが究極の主体性でなければいけないんです。 人に流されてとか、環境に流されてとか、過去の記憶に影響を受けてとかじゃなくて、自らが作っているこの虚仮の世で一切衆生を先に渡すという非常に奥が深い救済意思でなければいけないんです
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
主体的な意志こそすべてです。発願は大きければ大きいほどいいですね。本質は無量心ですから。発願も無量であるべきですね。
私は、大乗でも小乗でもなく(ここでわかりやすいように小乗という言葉を使っていますが、いまは仏教界の人で小乗という言葉を使う人はいないです。上座部仏教ということが多いですが、本当に正確にいうなら部派仏教でしょう)、大乗仏教も部派仏教も本当の仏陀の真意を伝えていないというところから始めています。
ですから、私は、大乗仏教の『おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生を渡さん』という発願を用いることはないですが、この発願が自分の心に強く響いてくる人はどんどん発願すればいいと思います。
牛過窓櫺の答えとしてはかなりいい線だと思います。
牛過窓櫺の公案も百丈野狐の公案も、指し示すところは全く一緒なのです。
 
そもそも、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というような人が、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の臨済禅を語っているのに違和感があります。親鸞の他力信心のほうがぴったりくる気がします。
臨済禅をやっていてどうして『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』となるのかが不思議です。
 
今度、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の言葉をどう解釈するのか聞いてみてください。
 
また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。
因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう?
 
なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。