日本仏教の『縁起』

芳和さんが返事をしてくれたようです。

こうあります。

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一切皆苦・諸法無常・諸法無我・涅槃寂静
仏教の四法印という旗印。
何となく、そこに真実の光を見ていたが、本当だった。
数限りないご縁に照らされて生きているから無我なんだ。
私が生きているのではなくて、ご縁に生かされている命。
数知れぬご先祖さんと父母のお陰でうまれた、ご縁の命。
人類の歴史によって生かされている、ご縁の命。
地域社会のお陰で育ち生かされている、ご縁の命。
動植物の命をいただき生かされている、ご縁の命。
地球、そして太陽系に生かされている、ご縁の命。
数限りない太陽系の無辺の宇宙に生かされている、ご縁の命。
自己を深く見つめてみれば、実体などなく無我である。
無我だからこそ、無量のご縁に生かされている、ご縁の命。
一兆憶万のご縁に生かされている、大切な命だ。
その無量のご縁こそ「仏の大悲」の光だ。
ご縁のおかげ様で生き。
無量の大悲の光に照らされて、無我の自己が照らされている。
それが縁起。
縁起の光というものさ。

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「私の歩いた後に道ができる」と言った詩人がいたけれど、どうなのか。
無我の私に道を作る力などあるのか。

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十二因縁とは「生れと育ち」だ。
人は、生れと環境によって作られていて、構成要素は空性だということ。
それなのに、人を生れによって差別し、育ちによって差別し、
生れを憎み、世間を恨んだりして苦しみ。
だから、十二因縁を覚るということは「怨み心」を無くすこと。
生れによって人を差別しないこと。
育ちによって差別しないこと。
それが仏の大悲。
十二因縁は、私たちに菩提心を抱かせ、菩薩道に入れさせるためにあった。
大悲の十二因縁。
『涅槃経』では、十二因縁は仏性だという。

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これは芳和さんが間違っているとかではなく、日本仏教が言う『縁起』とはまさしくこの通りなのです。

 

これは、宗派を超えて日本仏教のすべてと言っていい仏教者が言っています。

私たちは無数の存在に生かされている。

だから自分なんてない。

家族や会社や近所の人たちは当然だけど、今食べている米や野菜を作ってくれた農家さん、それを運ぶ人、それを売る人、いま食べて生きることができているのは、そういう無数の人に支えられていて生かされている。

それをご縁という。

わたしたちは、縁起によって生かされている命だということ・・・

ご縁というのはありがたいもの。

 

これが日本仏教の『縁起』です。

瀬戸内寂聴もよく言っています。

 

感謝するのはいいことなので、この考えが間違っているとか正しいとかは思いませんが、歴史上の仏陀が説いた縁起とは全く違います。

真逆と言ってもいいくらいです。

仏陀がこのような意味で『縁起』と言う言葉を使ったことは一度もありません。

 

 

仏陀の言った『縁起』とは苦の縁って起こる原因のことです。

仏陀は、『縁の滅』を知り、『縁の滅』を成し遂げたから成道したのです。

『ご縁を大切に』というようなことでは全くありません。

 

数知れぬご先祖さんと父母のお陰でうまれた、ご縁の命。

とのことですが、

この世で仏陀ほどそのようなご縁を大切にしなかった人はいません。

父親は一国の国王で、ゴータマ・シッダッタはその嫡男で皇太子でしたから、当然その国の統治者の地位を継がなくてはいけない立場でした。『数知れぬご先祖さん』のためにも。

また、妻と生まれたばかりの息子がいました。

無責任にもそのすべてを捨ててしまいました。

それは、父親の浄飯王が最も怖れていたことでした。

そして、成道の後には、一人息子のラーフラまで出家させます。

王家の家系は途絶えます。

 

仏陀の行ないを知っていたら、『縁起』がそのような意味ではないとわかりそうなものですが、日本仏教は『縁起』といえば、『ご縁を大切に』『縁起によって生かされている自分』とばかり解説します。

 

残念ながら、今の仏教には仏陀の真意などどこにも存在しません。