ある寺院による仏教史解説から 3

仏性と如来蔵思想と本覚思想

大乗仏教は「空」で「法無我」と「人無我」を説き、部派仏教で肯定的に受け止められていた「アートマン」(我)的なものをあらためて否定したが、唯識思想になると再び「アーラヤ識」という輪廻の主体を考えるようになった。輪廻の主体である以上「アートマン」と「アーラヤ識」にどのような違いがあるのかという問題が議論されるようになる。特にヴェーダーンタ学派の「アートマン」は「アーラヤ識」と極めて近いものであることを、仏教とヴェーダーンタ学派双方が認めている。唯識思想が「アートマン」的なものを肯定的に捉えたことから、如来の常住不滅を強調するという大乗仏教の思想が「無我」を主張しながらも「我」を超えた「大我」を説くという考え方を生むことになる。この「大我」は「仏性」あるいは「ニルヴァーナ」と同一のもので、衆生の中に「如来蔵」(真我)として存在しているという。 これを如来蔵思想という。この思想は2~3世紀頃にはインドで成立し『如来蔵経』『大般涅槃経』『涅槃経』『勝鬘経』など多くの経典が編纂された。『阿弥陀経』『般若経(初期)』『法華経』などを初期大乗仏教と呼ぶのに対して、これらの経典は中期大乗仏教に分類される。そこで説かれる「大我」とは、すべての衆生の個体を超越した普遍的・永遠的な「我」であり、自分の自己は一切の生きものの自己であるという。
南本『涅槃経』ではこの「大我」は八種の自在力を具えていると説いている。

① 一身を示して多くの身と作す。
② 一つの塵の身を示して三千大千世界に満つ。
③ 三千大千世界を満たす身を以って軽く拳りて空を飛ぶ。
④ 無量の形類をして、各々心あらしむ。如来の身は常に一つの国土に住して、しかも他の国土を一切悉見せしむ。
⑤ 諸根をして自在ならしむ。
⑥ 一切の法を得るも、如来の心はしかも得の相なし。
⑦ 一偈の義を演説して無量劫を経るも義また尽きず。
⑧ 如来は一切諸処に遍満して、なお虚空の如し。

 これはヴェーダーンタ学派の所説をそのまま取り入れたものである。アサンガが『摂大乗論』でこの説を外道として否定していたが、仏教の一部となり密教として日本仏教に伝えられている。
 「仏性」という言葉が「仏となりうる可能性」という意味で使われ始めたのは大乗仏教になってからである。中観思想では煩悩も如来も「空」であると説き、そのことを観ずることが仏を見るということであるから、すべての衆生がその可能性を持っているとして「仏性」を説いたのである。「仏性」を特に重要なものとして論じたのは『仏性論』を著したヴァスバンドゥである。これは、すべての衆生が「仏性」を持っているという「悉有仏性」を認めない者を論破するための論書である。経典では『大般涅槃経』が「一切衆生悉有仏性」を強調している。
中国や日本では、インドで衆生に含まれていない「草木」にまで「仏性」を認め、さらに天台宗では「草木国土悉有仏性」と「草木」だけではなく、山や川のような「国土」までも本来は仏であるという「本覚思想」を説くようになる。これは「如来蔵」思想の発展形であるともいえるが、仏教の思想と異なっているともされている。

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大乗仏教がバラモン教の影響を強く受けてできたのは間違いないのですが、その中でも大乗『涅槃経』を中心とする如来蔵思想は、バラモン教そのままといってもいいくらい影響を強く受けています。

ですから、「如来蔵思想は仏教ではない」とまで言う学者もいるくらいです。