大乗仏教がインドで流行らなかった理由

グレゴリー・ショペンの『インドの僧院生活ー大乗仏教興起時代』は、私たちが常識としていた仏教史のイメージを根本から覆す画期的な本です。

 

私たち、大乗仏教の国日本で生まれ育った者にとっては、紀元初頭から起こった大乗仏教はその教えの優秀さからすぐに主流となり、インドを席巻して中国・日本に渡った、と考えています。

 

しかし、グレゴリー・ショペンの地道な探求によって、大乗仏教はインドでは全く流行らなかった、特に5世紀や6世紀までは大乗仏典は作られていったもののほとんど侮蔑の対象であって教団もなかった、という衝撃の事実が明かされてきました。

 

また、それまで定説とされつつあった、大乗仏教は仏塔管理者の在家集団が起こしたという説は、グレゴリー・ショペンの発見によって全否定されました。

 

この本の訳者あとがきにこうあります。

 

教授(グレゴリー・ショペンのこと)は、たとえば大乗の祖師と目される龍樹(二、三世紀)の『ラトナーヴァリー』が、正統派から取り残された者の党派心の強い説教口調の性格を帯びており、大乗の思想を認めない人々に対しては『大乗を嘲笑する者たちは、愚かで、邪悪で、誰かにたぶらかされ、無知蒙昧である等々』と罵詈雑言を吐きかけ、自ら、大乗が嫌悪され、反感をかい、嘲笑され、あざけられ、軽蔑され、受け入れられないことを繰り返し記していることから判断して、そこに描かれている大乗は当時の仏教社会の中で嘲笑やあざけりの対象として存在していたとしか思えず、とても確立した独立の教団であるとは考えられない、と言う。

われわれは龍樹の時代には大乗がインド仏教界に覇をとなえていたかの如くに思いがちであるが、五世紀までインドにおいて大乗は、制度的にも文化的にも、取るに足らぬ存在に留まっていた。

そして、五、六世紀になって、辺境の、文化的にも周辺の地域に大乗の教団は出現したのである。

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グレゴリー・ショペンは各地の碑文をこまめに調査し、その結論に達しています。

この事実を突きつけられる前は、見逃していたことですが、この事実を指摘されてからは、大乗仏教がインドで全く流行らなかった理由は明確です。

釈尊の教説は、第一結集で確定したことは、インドでは常識であったからです。

偉大なる指導者の釈尊の教えをねじ曲げないように500人もの直弟子が集まって慎重に協議を重ね確定したものが第一結集なのです。

それを比丘たちがサンガで守ってきたのはインドの仏教界では誰もが知ることでした。

それを500年も経ってから、釈尊の声も顔も知らない者たちが勝手に『釈尊はこう言った』『如是我聞』といって新しい経典を作り始めたのですから、まずは驚き、非難し、あざけったことは当然でしょう。

インドでは何百年もの間、大乗仏教は嘲笑の対象であったという事実はその通りでしょう。

 

しかし、中国は違いました。大乗仏典も原始仏典もほぼ同時に中国語に翻訳され、どちらも釈尊直説の経典だと信じられたからです。

どちらも、釈尊の直説だという立場に立てば、大乗仏典ではさかんにそれまでの正統仏教を『小乗』と貶していて大乗の優位性を強調していますから、釈尊が言われたのであれば大乗仏教が優れていると信じられ、中国、日本では大乗仏教が流行っていきました。

 

これを見ると、大乗仏教は起源こそインドですが、中国仏教そのものと言って良い感じです。

 

この事実をわかってから大乗仏典を読むと、なぜこれほどまでそれまでの正統仏教を貶さなければならなかったのか、そして、至る所に大乗を説くものの迫害の様子が描かれてある理由がわかります。

 

嘲笑や侮蔑は、歴史上の事実だったのです。