想いの大切さ

今までの仏教なるものを全部白紙にして、最古層の仏典から歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを探求してきて愕然としています。

それは、仏陀の真意とは真逆な方向に仏教は行ってしまっていると言うことです。

さらに仏教の影響を全面的に受けて成立したアドヴァイタやその流れを極端に単純化した現代のノンデュアリティなどもそうです。

 

私が見るところ、仏陀ほど『想いの大切さ』『主体の確立』を説いた人はいません。

ところが、仏教なるものはその真逆の方向に突き進んできました。

思考をなくすこと、そして主体の喪失へと行っています。

 

仏陀は、kamma =業   =身業・口業・意業 =身口意の行ない   によって人生や環境のすべてが形作られると説きました。

 

kamma =身口意の行ない =身業・口業・意業  は、意思の内的活動である思業と意思が外部に表出した思已業に分けることができます。

意思が外部に表出するため、表業とも言います。

 

意業が思業です。

口業と身業が思已業(表業)です。

 

口業と身業とは外部に出た想いであり、意業とは内部で活動している想いです。

 

つまり、kamma とは、想いのことなのです。

 

kamma=想い によって、人生や環境のすべてが形作られるというのが仏陀の真意です。

 

それでは、四念処はどうでしょうか。

四念処は、身⇒受⇒心⇒法 です。

この4つを無常(生じるものは必ず滅するということ)であり、苦であり、非我であると洞察することです。

わたしたちは、身⇒受⇒心⇒法 の順で、記憶の束、自我と言われる中心を作り上げています。

その中心の成り立ちを洞察していき、deleteしていくことによってのみ、膠が剥がれ、束つまり中心がなくなります。

記憶はあります。記憶喪失になるのではなく、『あの人の名前は○○○○だ』という記憶はありますが、その記憶が中心を形成することがありません。

記憶の束、つまり中心がなくなったときに、精神に無量感がもたらされます。

この無量感は至福です。

この無量感にもとづく想いこそ、創造の源泉です。

四念処でdeleteしていくのは、身⇒受⇒心⇒法 というように肉体の経験にもとづいた思考です。

 

無量感にもとづいた想い、理法を観ずることによる想い、は、切ってはいけないのです。むしろ積極的に強く出すべきなのです。

 

七覚支で、念⇒択法⇒精進 というのはそういうことです。

 

念とは四念処です。

 

四念処で身体、感覚の経験にもとづく記憶の束をdeleteしていった後、理法にもとづく想いや観念を選択、選び取ってその理法の観念を保持するのです。

これが択法です。

 

精進とは四正勤のことです。

既に起こった悪い  kamma =思業と思已業=想い を断ち切り

まだ起こってない悪い kamma =思業と思已業=想い を起こらないようにし

既に起こった善い kamma =思業と思已業=想い を保持し増大させ

まだ起こってない善い kamma =思業と思已業=想い を起こすようにすること。

これが精進の本当の意味です。

 

 

ところが、仏教も禅もノンデュアリティも、こぞって想いをなくすことばかりです。

あるいは、想いは自分と関係なく浮かんでは消えるもの、流れていくもの、それに気づいているだけでいい、というように想いの手放し一辺倒です。

 

部派仏教も、想いの消滅の方に突き進みました。思考こそ悪であるかのように。

 

そこで、大乗仏教が興り、創造の主体をもう一度叫び始めたのだと見ています。

 

 

 

例えば、華厳経に有名な唯心偈があります。

 

 

華厳経夜摩天宮菩薩説偈品第十六 唯心偈

心如工画師 画種種五陰 
一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 
心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切從心転 
若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 
作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 
応当如是観 心造諸如来



心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば 
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると

 

心はたくみなる画師、画家のように一切世界を作っているのです。

仏も一切世界の中に現象を作っており、それが仏国土というものです。

衆生もその各の心のままに一切世界に各の現象を作っています。

想いが現象を作っているのです。

 

 

歴史上の仏陀もこう言っています。

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

 もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。

              ――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

 もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。

                   ――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』