絵を描けない画家になっては

華厳経夜摩天宮菩薩説偈品第十六 唯心偈

心如工画師 画種種五陰 
一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 
心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切從心転 
若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 
作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 
応当如是観 心造諸如来



心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば 
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると

 

 

心が一切世界を作っています。

仏もそうです。

迷いの衆生もそうです。

仏と迷いの衆生とのただ一つの違いは、

仏は、一切は心が作っていることを知っているのに対し、迷いの衆生はそれを知らないと言うことだけです。

 

 

歴史上の仏陀は、自らの想いによって人生や環境が作られていくんだということを説いたのですが、仏教なるものはどんどん変質していきます。

思いをなくし、自らの主体性もなくしていきます。

そんなものは仏陀の真意ではないと叫んで誕生したのが、大乗仏典の数々です。

インドでは大乗仏教は誰からも相手にされませんでしたが、中国に渡って大流行します。グレゴリー・ショペンが言う通りだと思います。

しかし、その大乗仏教も、自らの本体に実体があるだのないだのばかり議論するようになり、部派仏教と同じ道、主体性を喪失させる方向に向かっていきます。

 

今の仏教(大乗仏教、上座部仏教問わず)にしても、アドヴァイタから派生したノンデュアリティにしても、想いによる創造を捨て去った虚無思想となっています。

 

心はたくみなる画家なのです。

仏はそれを知って、仏国土を作っているのです。

迷いの衆生はそれを知らなくて、想いを妄想にしてしまっていますから、想念の流れ、激流に流されっぱなしで、次々とろくでもない世界を作り上げてしまっています。

それを仏教徒やノンデュアリティたちは『因縁だから仕方がない』『災難に遭うときは災難に遭えばよく候』と言っているのです。

 

絵を描けない画家ばかり量産してきたのが、今の仏教でありアドヴァイタです。

 

創造の主体を見失った虚無思想ばかり蔓延っているのです。

 

 

 

 

ちなみに、上に挙げた唯心偈は、破地獄の文と言われているようです。

破地獄の文は法華経の自我偈について言われていますが、華厳経唯心偈についても言われており、その出所は今昔物語の次の話によるものだそうです。

 

 

今昔物語巻六

震旦王氏、誦華厳経偈
     得活語  第三十三
今ハ昔、震旦ノ京師ニ人有リケリ。

姓ハ王ノ氏、戒行ヲ持セズシテ善ヲ修セズ。

文明元年ト云フ年、王氏、身ニ病ヲ受ケテ忽ニ死ス。

而ルニ左右ノ脇暖カ也。三日ヲ経テ甦リヌ。

身ヲ大地ニ投ゲテ泣キ悲ムデ冥途ノ事ヲ語リテ云ク、「我死セシ時、二人ノ冥官来リテ我ヲ追テ地獄ノ門ニ至ル。其時ニ一人ノ沙門来リテ我ニ告ゲ云ワク、我ハコレ地蔵菩薩也。汝京師ニ有リシ時、我形像一躰ヲ模シタリキ。

而ルヲ未ダ供養セズシテ投ゲ棄テキ。然リト雖我像ヲ模セル恩ヲ報ヒムト思フ、ト宣ヒテ一行ノ偈ヲ王氏ニ教エテ誦セシム。

其文ニ云ハク。若人欲了知 三世一切仏 應答如是観 心造諸如来 云々。 

沙門此偈ヲ教エ終リテ宣ハク、此ノ偈ヲ誦ズレバ地獄ノ門ヲ閉ヂテ浄土ノ門ヲ開ク也、ト。

王氏既ニ此ノ偈ヲ受ケ得テ遂ニ城ニ入リヌ。

閻魔王在シテ問ヒテ宣ハク、此人如何ナル功徳カ有ル、ト。

王氏答エテ曰ク、我愚癡ナル故ニ善ヲ修セズ、戒ヲ持セズ、但一四句ノ偈ヲ受持セリ、ト。

王宣ハク、汝今誦シテムヤ否ヤ、ト。

王氏習フ所ノ偈ヲ誦ス。其時ニ音ノ及ブ所ノ罪人、皆遁ルル事ヲ得ツ。

王モ亦此偈ヲ誦スルヲ聞キ給ヒテ、恭敬シテ、『速ヤカニ人間ニ還リヌ、』ト宣フ。

『此故ニ我甦也』ト云フ。

其ノ後諸ノ僧ニ向ヒテ此ノ事ヲ語ル。

然レバ華厳経ノ功徳無量也。

一四句ノ偈ヲ誦セル猶此ノ如シ、如何ニ況ンヤ解説シ書写供養セラム人ノ功徳ヲ思ヒ遣ルベシトナム語リ伝エタルトヤ。