最も怖ろしいのは

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんばんは。
禅で、愚さんの話が出されましたがIxtlanさんがマニカナで出会われた禅者は、その愚さんで、Ixtlanさんの禅批判の念頭には、愚さんがあったと思っています。
 
愚さんはマニカナで「悟りは簡単」とか「素質のあるやつなら、おれがすぐに悟らせてやる」とかの発言をなさってて、赤い実さんは「悟り」という言葉は使われませんでしたが、愚さんと赤い実さんは似てると思うことがありました。
赤い実さんに「宇宙と自分はひとつ(一体)だと感じることはありませんか?」と聞かれたことがあって、ぼくは「思わない」と答えたことがありました。
宇宙というのは空気もないし、暗いし、宇宙に放り出されたら確実に死ぬ、未知の領域です。その宇宙のことは何も分かっていないはずの赤い実さんが「宇宙と自分が一体」と感じるなら、それは現実の暗黒の宇宙でなく、頭の中の観念の宇宙を見ているのです。
愚さんも「パソコンと自分は一体」「あなたとわたしも一体」と、何でも一体になってしまう。
以前、YouTubeのアドバイダの女性は「何も起こっていない」と繰り返していましたが、現実には食事もしてるし、仕事もしてて、喧嘩もしてるかも知れない。
赤い実さんも愚さんも「何も起こってない」の女性も、起こっている現実を無視して、観念の中(自分の頭の中に作った架空の世界)だけで生きているのです。
そういう「考え」「思想」は形而上学と呼ばれます。仏陀は形而上学(観念や想像だけで実体のない世界)に陥ることを禁止したはずです。
南無阿弥陀仏も形而上学です。何の実体もない「阿弥陀仏」という観念を信仰しています。 仏教は今、形而上学になってしまっている。
現実の伴わない観念の中で宗教が発露しているから、愚さんはいくらでも悟ることができるし、アドバイダは次々と悟りの覚醒者が誕生しているし、南無阿弥陀仏は極楽浄土に死者を送り込むことが出来る。アニメの世界です。
要は仏教がただの玩具になっているから。

 

 

 

高原さん、こんばんは。

ノンデュアリティについては、シャンカラから始まって実に様々な人たちがいて、それぞれ特徴があります。近年でもエックハルト・トールなどベストセラーも出していますし、私もいろいろなノンデュアリティの本やDVDはずいぶん前から持っています。

その上で、批判しています。

日本のノンデュアリティは、大和田菜穂という人がその中心となっています。禅僧とのコラボもしていますね。

いまのノンデュアリティ(ネオアドヴァイタ)の言っていることは至極単純です。

わたしとあなた、わたしと宇宙を分け隔てているものは思考である、思考がなくなればわたしなどなく全体だけがある、ということです。

 

さて、こういうブログがありました。

 ↓↓↓

当時の私は、悟りとか、探求とか全然してませんでした。

でもシフトって、起きるときは起きるんです。

だからそれは、たくさん探求してるとか、
霊的に優れているとか、全然関係ないと思います。

おそらくそうなるのは、
そういう運命の、そういう宿命の魂なんだろうと思います。

私自身にとってあの体験は、

私の人生史上最大級超絶恐怖体験で、
あんな恐ろしい経験は後にも先にもありません。
生きたまま死ぬって本当に恐ろしいと思います。

 覚者の一人、スティーブン・ノーキスト氏は、
「覚醒は突然襲ってくる残忍な焼き討ち」と表現してますが、

言い得て妙と思いました。

 大和田菜穂さんは自著のプロフィールに「苦しみが終わりを迎える」
って書いてますけど、

(それが目覚め(解放)ということなのかもしれませんが…)

 実は、苦しみだけでなく、

喜びも消えてしまう可能性大なんですねビックリマーク

 一切のものごとは心のいたずらなのです。
喜びや苦しみはすべて心の創造物なのです。

             ラマナ・マハルシ

 ネガティブだけが消えてポジティブだけが残るってことはないんですよ。
両者は一枚のコインの表裏のようにセットですので。

 なぜ、こんな重要なことを非二元・ノンデュアリティのティーチャー達は言わないのかと…。

 あと、非二元・ノンデュアリティのティーチャー達は語りませんが、
シフトが起こると失うものがとても多いかもしれないんですね。
犠牲になるものがとてもとても大きいのです。

 例えば、誰かを深く愛したり、恋焦がれたり、
嬉しい、楽しい、喜び、ワクワク、ドキドキ、
達成感、充実感、満足感、幸福感etc…
そういった個人的な感情・感覚がすべて感じられなくなる、
個人的な「私」の感覚が抜け落ちてしまうと、
それ以前は感じられたことも感じられなくなることが本当にたくさんあるのです。

 それは起こってる、
そういう感情が湧き起こってる、とかなってしまって、
自分のこととしてではなく、
ただ、見てるだけ、眺めてるだけになるんです。
私は実際にその感覚を体験したことがありますが、
ホント、なんの刺激もなくて、
自分が生きてる感じがしなくなってしまって、
大変だービックリマークビックリマークビックリマーク叫び叫び叫びって、
それはもう大慌てになったのを今でもはっきり覚えています。

 まるで感覚がマヒしてしまったかのように、
無感情、無感動な状態になってしまい、
無味乾燥で、無機的な、

いいとか、悪いとか感じられない恐ろしくニュートラルな世界。

 そこはただ、見てるだけって世界でした。

 ふつう人生では、自分が存在してて、
自分があれをしてしまった、これをしてしまった、って、
行為者として個人的に、自分のこととして感じますよね。

 でも、あの非個人的な、意識がシフトした世界では、
ただ、見てるだけ、観照してるだけって感じになるんです。
それまでテレビドラマに出演していたのが、
ただ、テレビを見てるだけ、眺めてるだけ、みたいな。

非二元・ノンデュアリティの本、いろいろ出てるみたいですけど、
それよりももっと今の人生を味わった方がいいと思いますアップ

あれは努力したところで行ける世界ではないし、
目覚めた人たちが偉い訳でもない、優れた人達でもない。

ただ、偶発的に行けることもあるって感じです。

 誰もが悟りを理想化しているから、こんなことになってしまうんだと思います。
でも、実際には悟りの世界って、

想像してるのと全然違ってる可能性大なんですビックリマーク

 それは全然素晴らしくないんです。

至福に満ちてないんです。愛にも満ちていません。
とても静かで静寂に満ちていて、誰もいない、何にもない感じです。

 でもそれは、

実際に経験してみないと理解できない世界かもしれません。

実際あれはとても描写不可能な世界なんです。

だから理想化されて、憧れる人も出てくる。

それこそが究極の何かで、
素晴らしい何かがそこにあるに違いないって探し求める人も出てくる。

 誰もが一度、目覚めのプレ体験とかできたらいいのに…。

そうしたら、たぶん、賛否両論に意見が分かれると思います。
あの、大和田菜穂さんの最初の著書のアマゾンのレビューのように。

 騙されたって感じる人も多いと思います。

 え!?これが悟り!?ウソでしょ。

 これじゃ、人間やってた方がよっぽど楽しいじゃないって言い出す人も出てきそうですが、しかし、真相を知ってしまったら宇宙はその人を生かしておきませんので、破壊され、消されてしまうんですね。

私にはあの世界がいいか悪いか判断できません。

何故なら、あの世界は恐ろしく平坦で、
何のドラマも体験も存在しないからです。

自分のこととして感じられないので、
ただ見ているだけで何の味わいもない、空っぽの無の世界。

                 (ALICEという人のブログから)

※※※※※

 

 

いまの日本のノンデュアリティが好きな人はそれでいいと思いますが

私が目指す世界とは全く違います。

こういうと、『わたしがないんだから目指すこともない』とか『いまこのままありのままでいいんだよ』とかノンデュアリティの人は言ってきそうですが。

至福も愛もない世界など行きたいとも思いません。

 

この世で最も怖ろしいのは虚無思想です。虚無思想に陥るのであれば、宗教や哲学など全部捨てて現世的な欲望の達成に邁進する欲まみれの生き方の方が何万倍もましです。禅でも、本当にわかった人、白隠などは、禅や仏教が虚無思想に陥りがちなことを厳しく批判しています。

実際、仏教や禅は、一歩間違えれば虚無思想に陥りやすいのです。

シャンカラの流れも仏教をパクったというかいい言葉で言えば大きく影響を受けていますから、その危険性はあります。特にその流れを極めて平面化、単純化させている今の日本のノンデュアリティはそうでしょう。

 

これに関しては、今の仏教のあり方も含め、仏教、禅、ノンデュアリティ、全般について時間ができた都度書いていきたいと思います。