仏教についてのひとりごと 94

現象はすべて宇宙の力ですね。

仏陀も『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。』
と言っています。

精神が無量になれば、現象にも無量があらわれるのであり、現象に困窮があらわれているのであればそれはその人の精神が無量でないということです。
精神が無量であれば、宇宙の力、諸天善神もすべて応援してくれるはずです。

病気であろうが、生活が困窮していようが、人間関係もごちゃごちゃだろうが、二元対立を超えて悟ってるんだ、というのは、ただのまやかし、ごまかし、空論、観念論にしかすぎません。
自分の環境こそが、自分の精神をあらわしたものです。

私の精神はまだ無量のものとはなっていませんが、無量に近づけば現象も無量があらわれてくると思っていますよ。

 

 

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たーぼーさん、こんばんは。
<<大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ。>>

澤木興道は煩悩とはどういうものだと言っているのですか?
煩悩というとき、何を指しているのでしょう。
仏教者が煩悩というとき、その人その人によってその意味はバラバラです。
「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」ということは、煩悩は消し去ることができるというのが前提ですね?消し去れないのであれば『わざわざとどめる』とは言わないですから。
「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」、つまり、煩悩を全くなくしてしまったら、彼岸に渡ってしまうのでわざわざ煩悩を残しておいて人を救ってやるぞ、と言っているわけですね。
彼岸に渡ったら何故、人を救うことができないのでしょうか?
自らの精神も無量でなく煩悩の束縛を受け縛られまくっている人間が、誰かの精神を解放することなどできるでしょうか?
そこはどう思いますか?

 

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<<私もとある女性と縁が切れませんが
彼女を救いたいという思いもあります>>

どういう生き方もその人の人生ですから、自由です。
ただ、女性ばかりに目が行って、経営は大丈夫ですか?
仏教などとは全く別に、そこは心配になりますが。

 

 

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<<これは涅槃(彼岸というと、一般的には禅的な悟りと誤解されるので)に渡ったら人を救う事が出来ないからではなく、今生一代限りとなってしまうからだと思います。>>

大乗仏教では、悟って仏になったから二度と生まれないという思想を否定して、仏は無明や煩悩のために生まれるのではなく、衆生を救うために生まれるのだ、という思想になりました。

法華経方便品には
【諸仏世尊は唯、一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。
 諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、
 世に出現したもう。
 衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
 衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
 衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。】
とあります。

なぜ、大乗仏教の禅の人が煩悩がないと今世限りと思うのでしょうか。

禅の人たちは、煩悩即菩提だとか、人を救うためには煩悩が必要だとか言いたがりますが
まず、煩悩という言葉から使っている人によって意味がバラバラですので、私は煩悩という言葉は使いません。

中心を形作っていることに気付くかどうか、中心の成り立ちを洞察できるかどうか、そして中心を超え、中心を消滅させることができるかどうか、です。
中心とは、自我と言っても、我塊と言ってもいいのですが、大乗仏教はそれを放置している。
禅も、無思考の坐禅で、『無~、無~』と切り込んでいって、数十分の坐禅のときは思考が外れ限定が外れ無限定に触れた感じはするでしょう。
しかし、日常生活に戻ったら、思考がなければ生活できないので、元の木阿弥です。
思考が戻れば欲望もわんさと沸いてきます。
何も変わらないものだから、最後には、『別に煩悩をなくして悟るわけではない。煩悩があってもとらわれなければいいだけだ。煩悩即菩提だ。』というわけです。
これが、禅などの人が、見性した、悟った、と言いながら、実生活では煩悩まみれ、感情のまま、善悪の制限も外れていますから余計たちが悪くなる理由です。

そして、二元対立を超えた、善悪を超えた、とか言っているのです。
中心を洞察することもできない者が、観念論で、悟った気分、バーチャル悟りに浸っているだけです。

 

 

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私は、今までの仏教が仏陀の真意からかけ離れていると思っているので
独自に歴史上の仏陀の言いたかったことを探求してます。
大乗仏教も部派仏教(上座部仏教を代表とする)も、本当には歴史上の仏陀の言いたかったことを伝えていないのではないか、というものですから、これを書くと、仏教者全員を敵に回すだろうことはわかっていました。
それでいいのです。誰から認めてもらいたいから思うのではないですから。
そしてその思いはますます確信に近くなっていっていますので、不快に思う人も大勢おられるでしょう。

私は仏陀を仏教の開祖として見ていません。人類の偉大な教師の一人として見てます。
そして、その真意に迫るには、後世に積もりに積もった堆積物の山をまずは除かないと見えてきません。
まずは、仏教の全否定になってしまうことは避けられないので、不快に思われるなら
こんなスレなど無視されればいいだけです。

私は、歴史上の仏陀の真意を知りたいだけなので。

あなたが、趣味の例を出されたので、言いますが
趣味の話ではむしろ、自分がいいと思ったことを言い合いますよね。
『あの映画は最高だったよ』『いや、自分は全く面白くなかったし駄作と思った』
ブラームスならブラ1だけでしょ』『いや、円熟味ではブラ4でブラ1は物真似だよね』
『今年優勝は巨人でしょ』『いや、広島でしょ』

趣味の話を出されるなら、このように、意見が違ってもいいのではないですか?
私は自分の意見を言っているだけなので。

 

 

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リッチポンタさん、こんにちは。
<<現代僧で禅僧が最もたちが悪いと言われる所以ですね。色街で聞く禅僧の破天荒な所業は、彼女達にも時に限度を超え、我慢しかねるようです>>

僧侶や宗教人と言われる人の方が、一般の人に比べても煩悩まみれだったり人格がおかしかったりするケースは多いですね。
それがなぜか、がわかりませんでしたが、最近、歴史上の仏陀を研究していってはっきりと見え始めました。

 

アメリカは、歴史上、今まで2回も北朝鮮には騙されています。
今回はさすがに、核開発技術者の国外移転などという条件をつけているようです。
ただ、やはり完全には核廃棄はしないでしょうね。いかに表面上を取り繕ってアメリカをごまかそうか、しか考えてないでしょう。
トランプもかなり踏み込んで条件を出すでしょうけど、中間選挙がありますから
やはり合意には持っていきたくて仕方ないはずで、そこを見透かされると、抜け穴ができそうです。

 

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現状の僧侶や仏教者の在り方を見ると疑問に思っている人も多いと思いますよ。
そして、日本史上初めて、今になってやっと、歴史上の仏陀の肉声に近い経典は何か、ということが明らかになってきましたし、それを誰でも読める時代が来ましたので
これから、仏陀の真意に基づいた仏教復興運動というものが起きてくると思います。
私が生きているときには無理かもしれませんが、いつかはそれが大きなうねりとなるのではないでしょうか。

仏陀は人類最大の教師であり、その教えは人類の宝だと思います。
それを歴史上の堆積物に埋もれさせておくのはあまりにももったいないことです。

 

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