仏陀は出家してすぐ、アーラーラ・カーラーマ仙人の弟子になり、『久しからずして』無所有処に達します。
しかし、その無所有定は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。わたしは、この法を捨てて、さらに無上安穏の涅槃を求めるべきである。』と思って去ります。
次に、ウッダカ・ラーマプッタ仙人の弟子になって、『久しからずして』非想非非想処に到達します。
しかし、その非想非非想定は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。わたしは、この法を捨てて、さらに無上安穏の涅槃を求めるべきである。』と思って去ります。
非想非非想定は、色界無色界の最高の禅定です。
しかし、仏陀は、最高の禅定であっても『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。』と言って捨てているのです。
それから仏陀は、6年間も断食行や止息行などの苦行を重ねます。
そして、最後に苦行から離れ、乳粥を飲み、菩提樹の下で徹底的な瞑想に入ります。
目覚めて7日目の夜に十二縁起を順逆繰り返し瞑想して、すべての疑念が消え、悪魔の軍団を打ち破って立ったのです。
仏伝を見てはっきりわかることは、禅定では『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。』とし、十二縁起を徹底して瞑想することで悪魔の軍団を打ち破って立つことができた、ということです。
なのに、仏教で悟りを求めると言えば、禅定ばかりになっています。
四諦十二縁起という仏陀の法を徹底的に瞑想する人はいません。
いくら禅定をしたところで『智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』のです。