禅定至上主義が間違っている理由

仏陀の禅定と今の仏教の禅定は全く違います。

何が違うのでしょうか。

 

仏陀は、

不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒喜⇒軽安⇒禅定⇒三明⇒解脱

と進んだのです。

 

これは連続的な一連の流れです。

まず、不善の法の捨離が行なわれます。

そして、五蓋の捨断に進みます。

このようにして、心の中から不善の法を取り除いていくと

が生じます。

そして、身体も心も軽くなり安定します。軽安です。

身体も心も軽くなり安定すると、自然に定に入ります。

第一禅から第四禅まで進みます。禅定です。

第四禅まで至った比丘は、身体を清浄で純白な心によって満たし坐ります。(大アッサプラ経)

このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不同なものになると、過去の生存を想起する智(宿住智)に心を傾注し、向けます。

そのようにして、宿住智、天眼智、漏尽智へと至ります。

三明です。

漏尽智へと至り四諦の法を悟り、煩悩から解脱します。

 

これは、繰り返し出てくる一連の流れです。

禅定の前に、必ず不善の法の捨離が徹底して行なわれなくてはいけないのです。

そうしないと、喜も生じず、軽安にもなりません。

喜と軽安により、自然に禅定に入っていくことができます。

 

しかし、今の仏教は、この中で、不善の法の捨離を行なわず、禅定だけを切り離し、それを技法として1時間するだけです。

 

人間は不善の法ばかりを抱えているのですから、そのまま、いきなり、黙照にしても公案にしても禅定を行なうのは大変危険です。

どこの禅でも瞑想センターでも、不善の法の捨離は疎かになっています。

ですから、禅や瞑想で頭がおかしくなる人、狂う人が一定の割合で出るのです。

 

仏陀の法は生きていて、切り取ってそこだけ使うとなると、仏陀の理法から離れたただの技法になってしまうのです。

 

また、禅定をうまくしても、それから智によって四諦を観じなければ私という中心の消滅には至りません。

ただ、悟った気分でかえって『自分は悟っていて他のやつとは違うんだ』と傲慢になる人たちを輩出することになります。