仏陀の筏

原始仏典と大乗仏教を調べていくと、今こそ、歴史上の仏陀が残してくれた筏を甦らせないといけないという気持ちが強くなってきます。

 

原始仏典に何度も繰り返し出てくるものが仏陀の教えにとって極めて重要な法だということは間違いありません。

重要な理法は仏陀も何度も説かれ、弟子たちも心に留めて暗誦していたはずだからです。

 

『無常であり苦であるものを私、私のもの、わたしの本体と呼んでいいであろうか。』という言説はその一つです。数多く出てきます。

 

不善の法を捨てる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

この図式も数多く出ます。

不善の法を捨てる⇒喜⇒身心が軽くなる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

となることもあります。

このことから七覚支ができたと思います。

 

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

これが七覚支ですが、

私の理解では、念⇒択法⇒精進はすべて、不善の法を捨てて善法を残すことです。

 

私は、sati(念)は、記憶という意味だと考えています。

仏陀の理法を記憶し心に留めて繰り返し思い起こすこと、これがsati(念)です。

 

これは簡単なようで非常に難しいことです。

なぜなら、私たちは、常に思考の奔流に呑み込まれているからです。

肉体を持ち、感覚を持って、日々日常生活していると、絶え間なく感覚の経験が起きてきます。その感覚に反応して思考が出ます。その思考が連想となって、とめどない思考の奔流が起きます。

思考に巻き込まれている状態がほとんどです。

それに気づいてないと巻き込まれますから、『気づき』は大事なのですが、しかし、satiを気づきとだけ解釈してしまうと、ただの技法になってしまい仏陀の説いた理法と何の関係もないものとなります。

 

これでは、仏陀の真意は失われます。

最初期の弟子たちは、『生じるものは必ず滅する』という一言を聞いただけで悟っています。

これが仏陀の理法の根幹です。仏陀の理法の洞察なくして、涅槃はありえないと考えます。

 

四諦、十二縁起、四念処という仏陀の理法を洞察していくこと、ここを仏教なるものは捨ててしまった。

 

部派仏教(上座部仏教)は、マインドフルネス一辺倒です。

大乗仏教は、四諦十二縁起は声聞縁覚のための劣れる法として捨ててしまいました。

 

ゆえに、仏陀が残してくれた筏はいまはどこにもないのです。

 

大乗仏教の禅は、看話禅(公案禅)と黙照禅に分けられます。

公案を考え続けるか、何も考えず只管打坐か、です。

どちらも、仏陀の理法を瞑想することはありません。

 

40分の座禅の期間は思考のない状態になることはできたとしても、座禅から立ち上がると元の木阿弥です。

座禅を熱心にして、短期間で見性できたとしても、(3日間で見性させると豪語する禅師もおられるとか)我塊はそのままで、かえって、悟ったという体験を誇り増上慢になる人もいるようです。

 

仏陀の理法である十二縁起は、自我(私という中心)の成り立ちを洞察するものです。自我が構築され苦の集積に向かって激流に押し流されているこをとを如実に観察することです。

この洞察を経ないと大海へは出られません。

『私という中心』がそのままで、無量であることを阻害しているからです。

中心を持ったときに限定が生まれ欠乏感が生まれます。

 

大乗仏教には筏がありません。

 

『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』(佐々木閑・宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

 

とある原因は、筏がないからだと考えます。

 

 

仏陀の理法を洞察し続けること、これこそが、仏陀の残した筏です。

 

 『無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない。』

つまり、非我です。

五蘊非我であり、四念処の身・受・心・法すべてを非我と観じること、です。

 

今の仏教には筏がありません。

今こそ、仏陀が残してくれた筏を掘り起こし甦らせなければならないと思っています。