高原さん、こんにちは。
精神世界の領域に興味のある人は大きく分けて2通りだと思っています。
道に真摯な人と真摯でない人です。
真摯な人というのは、もちろんちゃんと自分の識見やビジョンは持っていてしかも可能性にオープンです。
真摯でない人というのは、結局、自分を人に認めてもらおうということだけを思っている人です。聞かれてもないのによく自分の知識量や読書量を誇ったりします。
ヤフー掲示板でアラシの人たちはこのタイプでしたね。
自分が悟っている、いつも目覚めている、いつも気づいている、何でも知っている、ということを思い込んでいる人たちでした。
それが、自分のスレッドを立てても誰も訪れず閑散としているので、アクセス数の多いスレにあちこち出向いていっては自分をアピールしていました。中にはどんなにスレ主に嫌がられてもその他人のスレに居着いてしまうアラシもいました。
この人たちは、真摯に道を求めているわけではなく、むしろ自分が先生として教えたい、自分が優れているんだということをアピールしたい人たちでした。
ヤフー掲示板では、スレ主は投稿者を選んだり、コメントの選択をできないシステムでしたので、この人たちのやりたい放題でした。
真摯な人は、自分からあちこちの掲示板に出向いてアピールしまくらなくても、自然に同じ真摯な人との対話が生まれてくるものです。
石飛先生も、そういう、道に真摯な人です。
大乗の祖である龍樹の研究家ですので、もちろん龍樹が大好きなのでしょう。
仏陀が一切智者であるということで、スッタニパータにはその一切智があり、大乗仏教の思想もすでにスッタニパータにあったということで、部派仏教と大乗仏教の共通性を模索されているように思えます。
私は、部派仏教も大乗仏教も、今までの仏教理解を全部白紙にして、本当に仏陀が言いたかったのは何かを探求しています。
それが進む中で、仏陀の真意がねじ曲った経緯があるという結論を持っています。
大乗仏教はねじ曲ってしまった仏陀の真意の復興運動だったというのが私の考えです。
原始仏典⇒次第にねじ曲っていく⇒復興運動としての大乗仏教⇒それもねじ曲っていく
という感じで捉えています。
ひょっとすると全く違う視点で、原始仏教と大乗仏教の統一場を結果的に探しているのかもしれません。石飛先生も私も。
私は、石飛先生の特に親鸞や龍樹に対する見方とは正反対です。
ですから、かなり親鸞をボロクソに言ってしまいました。
ただ、それでいいのではないでしょうか。
私の見方が絶対に正しく他の人の見方が間違っているとは思いません。
また、石飛先生も自分の見方に従いなさいとは言われないでしょう。
神秘主義をすべて排除すると言われていましたが、イスラム神秘主義のスーフィーの詩を紹介したら非常に感動されていました。自分自身の感性、理性、悟性に正直に従うのは真摯だからです。
見方が同じでも真摯でない人とは関わらないのが一番ですし、見方や考えは正反対でも真摯な人と話すと得られるものは大きいと思っています。