山林に住む比丘と里に住む比丘

インドでは、古代から、山林や郊外に住む修行者と村に住む修行者の対立があったという論文を見つけました。

里から離れて一人修行する者と里の近くで仲間と修行する者とが分かれて対立していたという指摘です。それはヴェーダの時代からバラモン教にもあり、そして仏教にもあったと言うことです。

この対立は、提婆達多の造反にも関係するかもしれませんし、大乗仏教の起源にも関係してくるかもしれませんので、その論文を載せます。

 

ところどころ文字化けしていますので、修正していきますが、時間がかかりそうな場合はこの記事全部を削除します。

非常に読みづらいですが、一応上げます。

 

 

ヴェーダやブラーフマナの時代から一貫してインド文化では, αmρrya (郊外,荒 野)と gramα (村)の対立が見られる。この点に関して, Olivelleは次の様に述べて いる。「二つの宗教形態一一ヴェーダの儀式尊重主義と苦行主義は,二つの場すなわち村と荒野で象徴される。」

この対立は,以下に見るように,仏教においても見られるものである。

ノミーリ聖典にも,阿蘭若住比丘 (iiraiiiiaka) と村住比丘 (giimantavihiiri)とが並 記されている例がある。

例えば, Vin. III 171. 2f. yo icchati araiiiiαko hotu, yo icchati glimαnte vih rat~ yo icchati #JJefaPatiko hotu, yo icchαti nimantanarμ siidむほtu,.…

(“阿蘭若住者になりたい者はな れ;村に住みたいものは住め;托鉢者になりたい者はなれ,招待食を受けTこし、もの は受けよ;

 MN I 30.一3f.kiiicapi so hoti araiifiαko pantaseniisano, Pifl,rj,apatiko sapadiinaciiri, parμsukuliko lukhacivaradharo,αtha kho narμ sαbrahmaciiri na sakkaronti ..・H ・.kiiicapi so hoti glimαntα, vihiiri nemantaniko gahapαticivαradharo, atha kho nαm sabrahmaciiri sakkaronti...

(“たとえ彼が阿蘭若住者・遠く離れた臥坐処に住む者・托鉢者・一軒 一軒巡って托鉢する者・糞掃衣を着た者・粗末な衣を着た者であろうとも,修行者 仲間は彼を尊敬しない……。たとえ彼が村に住む者・招待食を受ける者・在家者 [からもらった]衣を着る者であろうとも,修行者仲間は彼を尊敬する。”)

. MN I 473.1~3. araiifiakeniipi kho iivuso Moggalliina bhikkhunii ime dhammii samiidiiya vattitabbii, pag-eva glimαntavihiirinli

(“Moggallana君よ。これらの事は阿蘭若住比 丘も受持して実行すべきだ。まして村に住む[比丘]はいうまでもない。”).

 

次の諸経典の記述は,阿蘭若住比丘と村住比丘の対立が早い時期からあったことを 明確に示している。

A1匂uttara-NikiiyαIII341f.には次のようにある。

礼拝にくる在家者たちの喧喋を聞いた仏は,侍者 に,名声より閑居の楽を好むと語り,さらに次のように言っ た。

「閑居・寂静・正覚の楽を得ることのできない人は,不浄な楽,睡眠の楽にも似 た利得・恭敬・名声の楽を享受すればよい」。

そして村に住むことを次のように庭し た(ANIII 342.一lf.)。

“村に住む (gamantavihiirf)比丘が三昧に入って坐っているのを見ると,私は 「守園者か沙弥が邪魔して,彼を三昧から出させるのではないか」と考える。だか ら私は,彼が村に住むこと (giimantavihiira)を喜ばない。

阿蘭若住の(αrafiiiakα)比丘が阿蘭若の中で居眠りしながら坐っているのを見る と,私は「いまに彼は眠気と疲れを取って,阿蘭若(αrafifia)を唯一の対象とした 考察をするに違いない」と考える。だから,私は,彼が阿蘭若に住むこと (αrafiiiavihiira)を喜ぶ。

あるいは,阿蘭若住の比丘が阿蘭若の中で,三昧に入らず坐っているのを見る と,私は「彼はいまに集中していない心を集中させ,集中した心を保つで、あろう J と考える。だから,私は,彼が阿蘭若に住むことを喜ぶ。

あるいは,阿蘭若住の比丘が阿蘭若の中で,三昧に入って坐っているのを見る と,私は「彼はいまに解脱していない心を解脱させ,解脱した心を保つで、あろう」 と考える。だから,私は,彼が阿蘭若に住むことを喜ぶ。

あるいは,私は,村住の比丘が衣・飲食・坐臥具・薬・日常必需品を得るのを見 る。彼は,利得・恭敬・名声を望み,独坐膜想を捨て,阿蘭若と森 (arafiiia-vanapatthiini)を捨て,人里離れた住処 (pantiiniseniisaniini)を捨て,村・ 町・都に入って,そこに住まいを定める (viisarμ kappeti)。だから私は,彼が村に 住むことを喜ばない。

あるいは,私は,阿蘭若住の比丘が衣・飲食・坐臥具・薬・日常必需品を得るの を見る。彼は,利得・恭敬・名声を避け,独坐膜想を捨てず,阿蘭若と森を捨て ず,人里離れた住処を捨てない。だから,私は,彼が阿蘭若に住むことを喜ぶ。

 

” 同様の記述は, ANIV 343.23f.にも見られる。このように村住比丘の生活様式を反し ている A勾u伽 ra-Nikiiyaは,阿蘭若住の比丘の立場に立っていると言える。 これに対して, Sarμyutta-Nikiiyaにある M留勾・azenaという経(SNIV 35.-4f.)は, 村に住むことを支持している。 Migajalaという比丘に,「一人でいる者」 (ekavihiirf) と「連れといる者J(sadutむ1a-vihiirf)の意味を尋ねられた仏は次のように答えた。

 

“好ましく,快く,魅力的で,欲をかきたてる形・音・匂い・味・触感及び意識 の対象があるが,もし比丘がそれらを楽しみ,歓迎し,執着すれば,彼に歓喜・貧 着が起こり,その結果 彼は歓喜の繋縛に繋がれることになる。

こうなった比丘が 連れといる者 である。

たとえ彼が,森の中の,人里離れ,閑静で、,ざわめきな く,世間から離れ ,独坐膜想に適した住処に 住もうとも,彼は「連れといる者」と呼ばれる。

他方,もし,比丘が,好ましい形・音・匂いなどを楽しまなければ,彼に歓喜・ 貧着は起こらず,歓喜の繋縛に繋がれることもない。このような比丘が「一人でい る者」であり,たとえ彼が,比丘・比丘尼・男女の在家信者たち・王・大臣・外道 とその弟子たちに混じって村 (gamanta)に住もうと,やはり「一人でいる者」と 呼ばれる。

 

” 上記のパーリ経典の記述から,阿蘭若住比丘と村住比丘の対立が早い時期からあっ たことが分かる。

 

ここで、法華経勧持品を見てみると・・・

阿蘭若に住んで,桂複を着た,愚かな苦行者たちが,私たちのことを(αsme) こう言うでしょう (第 5偏)

「彼らは味 (rasa)を貧り執着し,在家者たちに法を説く 」と。

彼ら(=阿蘭若比丘たち)は六神通を持つ者

れ,私たちのことをこう言うでしょう

「実に, この比丘たちは外道だ!彼らは自分たちの詩 (kiivyani)を説く

 

利益と名誉のために,彼らは自分で経典 (sutrarzi)を作って,集会 の中で 説く Jと。

 

私たちを罵る者は 、王たち・王子たち・大臣たち・バラモンたち・居 士たち,さらに他の比丘たちにも、私たちの悪口を言うでしょう。

「彼 らは外道の教義を広めている」と

私たちは偉大な聖仙たち(=仏たち)への尊敬の念から,これら全てを耐えましょ う。

 

 

羅什訳も同様に解釈できる。

或有阿練若納衣在空閑

自謂行員道軽賎人間者:

“貧著利養故輿白衣説法” 篤世所恭敬如六通羅漢是人懐悪心常念世俗事 仮名阿練若好出我等過而作如是言:“此諸比丘等篤貧利養故説外道論議 自作此経典証惑世間人魚求名聞故分別於是経” 常在大衆中欲殻我等故向園王大臣婆羅門居士及徐比丘衆誹誘説我悪 謂:“是邪見人説外道論議” 我等敬イ弗故 悉忍是諸悪、

 

著者の解釈にも,引用文(誹誘)と平叙文の区別に関して,まだ不確定な点が残っ ていることは認めざるを得ないが,それでも,これら偏から,以下の点が分かる。

 

1)阿蘭若住比丘が「私たち」を非難

(2)阿蘭若住比丘は愚か (durmati)

(3)「私たち」は在家者に説法したことで非難される

(4)「私たち」は経典を作ったとして非難される

(5)「私たち」は味に執着しているとして非難される

(6)「私たち」は比丘、さらに,同じ「勧持品」の第四から,次の二つの ことが分かる。

(7)「私たちj は集会でこの経典(すなわち法華経)を説こう

(8)「私たち」は,仏が託したもの(すなわち法華経)をさらに伝えるために,町 や村の人々を訪ねましょう

 

要するに,「私たちj は,対立する阿蘭若住比丘に新しい経典を作ったと非難され つつも,町や村の人々に法を説く者である。

「私たち」は将来も法華経を保持し説き 続ける。

上述の備に先行する散文に拠れば,八十千万億の菩薩がこれらの備を説いた設定で あり,「私たちJとはこれら菩薩だが,実際は,この「私たち」とは『法華経』の作 り手・担い手に他ならない。

さらに,阿蘭若住比丘の「私たち」に対する誹誘の言葉は,すでに見たrcchaSutraにおける阿蘭若住比丘の村住比丘に対する非難 一一

「君たちは舌の先で、もっとも美味しい物を探している」

「彼らは常に書 物を持ち運んでいる」

に類似していることが注目される。

 

以上の点から見て,『法華経』は,村住あるいは村志向の比丘たちによって作られ たと考えられる 。