仏教史最大の謎

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんばんわ。 少し資料を読んでみてましたが、部派仏教の大衆部は規模が格段に小さく、弱小だったことが書かれてました。おっしゃっている通り、5~6世紀に時代が移ってもインドでは大乗仏教も龍樹の影もないに等しい誰にも見向きもされない存在で、それがなぜ中国で大乗仏教が花開いたのか、また、その中国で仏教は数世紀の後、跡形もなく姿を消したのかも、謎のようなことだらけです。宗教というのは国の保護がなければ保たれないという話があり、そういう意味では中国のように王朝が他民族王朝に変わることも普通に起こり、その度に前支配民族の大量粛清が行われ、思想、宗教も一緒に土に埋められてしまえば仕方がありませんが。 インドの仏教僧団が金持ちだったというのも不思議な話です。お金持ちなら、なぜ托鉢をして他人の家を回り、(腐っているかも知れない)食べ物を貰って食べるという辛い食事をしなければならかったのか。釈迦は食べ物や施し物を貰うことは良しとしましたが、「何も持つな」と所有物を否定し、お金を受け取ることは禁止していたのではないですか?、などの謎も。

 

高原さん、こんにちは。

グレゴリー・ショペンの著作は、私たちの仏教史のイメージを根底から変えてくれます。

そして、これこそが、本当の仏教史の姿だと思っています。

これを歴史上の事実として、なぜ大乗仏教は興ったのか、これを解き明かしていく必要があります。

これがわからないと、仏教の根底を流れるものがわかりません。

つまり、仏陀の真意が分かりません。

 

中国でまず大乗仏教が流行った理由は簡単です。

仏陀の直説は文字にされず、サンガの中で口承、口伝で伝えられていきました。

紙に文字を書く経典が作られ始めたのは大乗仏典が先だという説もあるくらいですから、すくなくとも原始仏典、大乗仏典が経典となったのはほぼ同時かもしれません。

中国に伝わってきたのは、そのような経典群であり、インド由来の経典はすべて本物とされました。

ですから、小乗、大乗の区別なく入ってきたのです。

龍樹の論書も翻訳されて入ってきました。

 

インドと中国の仏教の根本的な違いは、インドでは、部派仏教が第一結集で確定した教えを守っていたことは仏教徒なら誰もが知っていたのに対し、

中国では、原始仏典、大乗仏典ともに仏陀の直説だという前提であったということです。

そのため、インドではほとんど大乗仏教が広まらず、中国で流行っていったということです。

 

さて、これらの史実から、やはり最も大きな謎が生まれます。

なぜ大乗仏教は興ったのか?です。

第一結集で確定した仏陀の教えが大事に守られていたにもかかわらず、いきなり、全く新しくなぜ仏典を創作し始めたのか?

これは仏教史上最大の謎です。

イメージしてみてください。

とても尊敬され、非常に優れた教えを説いた聖者がいたとします。

その人の弟子であれば、自分の師匠の言葉を後世に間違いなく伝えたいと思うでしょう。

仏陀の直弟子たちも、仏陀の教えがねじ曲るのを怖れ、仏陀の死後直後に500人集まって教えを確定しました。

そこで確定した教えこそが仏陀の教えです。

その教えを大切にサンガで伝えていきました。

ところが、仏陀の死後数百年も経ってからいきなり、全く新しい経典を『仏陀の言葉だ』と言って勝手に作り始めたのです。

それはすべての仏教徒にとっては、悪魔の所業に見えたでしょう。

今まで確定した仏陀の法を間違いがないように守ってきたのに、仏陀の顔も知らず声を聴いたこともない人間たちが勝手に経典を作り始めたのです。

仏教徒にあるまじきことです。

今までの仏教史では、このことの重大性は無視されてきました。

大乗仏教は部派仏教の大衆部から発展したものという説も有力でした。

しかし、今では、それは否定されています。

自然発生的にできたわけではなく、突然、あちらこちらで、経典を勝手に創作する者たちが現れてきたのです。

これは本当に謎です。

ここを解明すれば、仏教の謎が解けると思いますし、逆に言えば、この謎が解けない限り、私たちは全く仏教なるものが分からないまま来たというしかありません。