仏教についてのひとりごと 139

人間は肉体を持ち感覚を持ち記憶を持ち思考を持ってしまったために限定され分離されそのままでは欠乏感が増幅していって苦の集積に流されて行くのです。
仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言い続けたか、今になってはっきりとわかりました。

残念ながら、日本の仏教は仏陀の本当の真意と真逆に進んでいます。

他者に従属するな。他者の目、他者の言葉、他者の評価から成り立っている『自我』=『私という中心』ではなく、真に主体的であれ。
これが仏陀の究極のメッセージです。
真の主体こそ『島』です。

 

 

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仏陀のメッセージ、『従属するな』は、日本の仏教とは真逆です。

いわゆる日本仏教は『縁起によって生かされている、ありがたいありがたい。人はみな一人では生きられないの、だってそうでしょ。いま食べているお米はお百姓さんが苦労して作ったものだしいま着ている服も大勢の人たちのおかげでできているの。この世はすべて関係性でできているの。それが縁起。世間様のおかげで生きていられるの。』ですね。

このようなことが仏教だと思い込まされたために、日本人にとって『世間様』は絶対的な存在になり、世間様に恥ずかしくないように、世間様に笑われないように、世間様に嫌われないように、ビクビクしながら生きることが当たり前になっていきましたね。

 

 

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私が投稿すると必ず妨害しに出てきますね(笑)
大乗仏教を否定なんてしてませんよ。
大乗仏教ヒンズー教の影響があることは悪いことではなく、仏教学者の間では否定する人はいないくらい事実です。大乗仏教ヒンズー教の影響を受けてないとする仏教学者が一人でもいたら紹介してください。
大乗仏教の神々はヒンズー教の神々そのものですし、数珠は原始仏教にはなくヒンズー教から来たものです。
ヒンズー教では108個の珠の数珠を使いますが、それはシヴァ神の名前が108つあるからです。それを仏教が取り入れ、後付けで煩悩の数が108つとしたのです。煩悩の数は6万4千ともいわれ、108の計算方法は後付けです。

特に浄土教の教えはゴータマ・シッダッタの教え本来のものではなく、ヒンズー教から来たものですね。
ゴータマ・シッダッタは、想像上の神仏への信仰などは一切説きませんでしたし
なにより自燈明を説いたので他力を説いたことはありませんでした。

歴史上の仏陀が説いたことと違うから正しいとか間違ってると言ってるわけではありません。
それが事実だから言っています。

阿弥陀仏の師はヒンズー教シヴァ神ですから、浄土教がいかにヒンズー教の影響を強く受けて誕生したかがわかりますね。
私はヒンズー教にもジャイナ教にも偏見はありませんから影響を受けたからと言って貶しているわけではありません。

 

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無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ローケーシュヴァラ・ラージャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。

サンスクリット名ローケーシュヴァラ・ラージャとはシヴァ神の別名である。

また、法蔵菩薩の第二六願にナーラーヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナーラーヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

 

 

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浄土教徒の人もこういう記事を書いてますね。
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私は浄土教徒なので、阿弥陀如来の話から始めたい。阿弥陀仏は古くから仏教と習合された仏様(神様?)の一人で、アーキタイプゾロアスター教の光明神アフラ・マズダとも、さらに古いミスラ神とも言われる。

浄土三部経のうち『無量寿経』によると、往古、阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者で、世自在王(ローケーシヴァラ・ラージャ)如来という仏さまを師匠として修業していたという。

浄土真宗で読誦される「正信偈」の初めの方に、次のような箇所がある。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

この世自在王如来というのが、実はヒンズー教の破壊神シヴァなのだという。ガネーシャの首を吹っ飛ばした物騒きわまりないお父さんである。

中村・早島・紀野訳註『浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)』P252の「ロケーシヴァラ・ラージャ」に対する訳注には、次のようなことが書かれている。

ローケーシヴァラ・ラージャ ― Lokeśvararāja. 「世自在王仏〔せじざいおうぶつ〕」と訳され、無量寿仏の師として重要である。この仏に対する信仰も独立に行われていたもののごとく、『ローケーシヴァラ讃』(Lokeśvarastava)という書も残っている。また碑文にはローケーシヴァラがアヴァローキテーシヴァラ(観世音菩薩)を意味して使われている例もある。しかしローケーシヴァラとはヒンドゥー教ではシヴァ神の別名であるから、この点で何らかの連絡があるのかもしれない。

 

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歴史上の仏陀ゴータマ・シッダッタ)は、その長い生涯で、阿弥陀仏について言及したことは一度もありません。
他力信心を説いたことも一切ありませんでした。
自燈明を説いた仏陀において、他力を頼むという考えはまさしく真逆なものでした。

いま、大乗仏教がどうして興ったかを調べています。
大乗仏教仏陀の真意の復興運動だったと思い始めていますが
浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥー教バクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

浄土教が発生する前から、インドでは神の名前を繰り返し唱え続ければ死後よいところに生まれるという信仰が民衆の間に熱狂的に広まり流行っていました。
そのような民衆に圧倒的な支持を受けている考えが仏教に入ってきたのは必然とも言えるでしょうね。

 

 

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無量寿経によると、法蔵菩薩は、世自在王仏(ローケーシヴァラ)を師として阿弥陀仏となりました。
ローケーシヴァラとはヒンドゥー教シヴァ神の別名です。

これを見ても、浄土教ヒンドゥー教発祥であることは明白です

 

 

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リッチポンタさん、
仏陀の真意の探求を終えて、いまは、大乗仏教がなぜ、どのようにして興ったのかを調べています。
明治時代には、大乗仏教は大衆部が発展して興ったとされていましたが、いまは否定されています。
昭和時代には、仏塔を管理していた在家が中心となって大乗仏教を興したという説が有力でした。
そしていまは、そうではなく、辺境の仏教教団から部派仏教のアンチテーゼとして興ったという説が有力になりつつあります。

私は、同時多発的に、部派仏教に批判的な人たちが、出家在家含め、大乗仏教を興していったと考えます。そこには浄土教のように、ヒンドゥー教バクティ思想などを取り入れながら興ったものもあるでしょうし、様々だったと思います。
大乗仏教の多様性はそういうことだと思います。

仏陀の真意がわかってから、大乗仏典を読むと感動できると思います。
いま残っている大乗仏典は、夥しい数の仏典の中でも、特に意識の高い人たちが作ったものだと思います。
それは感動できる芸術作品でしょうね。

 

 

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<<いつか言ってらした「いつも何度でも」もそうですけど、クラシックだけでなく、そういう感じの歌も聞かれるんですね。>>

 

音楽を聴く時間の99.9%はクラシックですね。
クラシック以外の音楽は、YouTubeで年に何度か聴くくらいです。

20歳くらいのときに悟ったような気分になったことがあり、それは悟りとしては本物ではありませんでしたが、なぜかそれを機にクラシック音楽のほとんどが『本当に』魂からわかるようになりました。
それまでも、モーツァルトベートーヴェンなどのいくつかの曲は聴いていて、『いい音楽だ』と表面的に思うことはありましたが、ある時に、薄皮が剥がれた感じというか、殻が破れた感じというか、音楽が雪崩れ込んでくるというか、そのような圧倒的な感情で魂の奥から本当にわかった瞬間がありました。


その夏は、ベートーヴェンの『運命』とベルリオーズの『幻想交響曲』ばかり聴いて過ごしました。


それから後というもの、ベートーヴェン以降のブラームスシューベルトショパンなどのロマン派の音楽はすべて心の底から『わかる』ようになりました。
それは圧倒的な体験でした。

 

ただ、マーラーだけは『巨人』と『大地の歌』くらいしか聴かず、マラ9は理解できませんでした。

 

それが、数年前、たまたまYouTubeでマラ7の最終楽章の出だしが鳴ったときにマーラーとの間の膜が破れ音楽で初めて号泣しました。それで、マーラーの第7、第8、第9、第10がすべてわかるようになりました。
それからは、ほとんどの時間、マーラーの7,8,9,10を聴いています。

 

今現在、音楽との間に『膜』があって魂の底から理解できてないのはバッハの『マタイ受難曲』ですね。
マーラーの上にはバッハしかいないと思っています。
マタイ受難曲』は人類史上最高の音楽ですが、その理解にはもっと意識の拡大が必要ですし、聖書の理解も必要でしょうね。
死ぬまでに『マタイ受難曲』を心の底からわかるようになりたいものです。