八正道

相応部経典45.1『無明』にこうあります。

 



比丘たちよ、無明がまずあって
無明に従う無智者によって邪見が生じる。
邪見によって邪思が生じる。
邪思によって邪語が生じる。
邪語によって邪業が生じる。
邪業によって邪命が生じる。
邪命によって邪精進が生じる。
邪精進によって邪念が生じる。
邪念によって邪定が生じるのである。

比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、明にしたがう智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。

 

 




つまり、正見=正見解 こそは、明=無明の反対=慧 であるということです。
そして、正見=慧 に至る過程で、慚と愧を経るのです。
無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。

八正道とは人間の頭で考えた倫理道徳の8つの項目ではありません。
究極の境地=智慧 に基づいた思考、言葉、行為ということです。

 

 

  八正道  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 20:43 No.55591

クォークさん、こんばんは。

>正観察とは五取蘊を無常・苦・空、そして非我・非我所であると観察することだといいます。


その通りですね。
歴史上の仏陀が繰り返し言った言葉があります。
それは
『無常であり、苦であるものを我、我が物、我が本体と言っていいであろうか』ということです。

この言葉からすると、仏陀の教えの根幹は、無常・苦・非我 であることがわかります。

四念処も、自分の肉体・感覚・思考・観念 が、無常・苦・非我であることを洞察することだと思います。


>ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?


確かにそれでもいいと思いますが
私はむしろ
八正道の、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、
つまり正見以外の7つは
正見に基づくものだと考えています。

正見にもとづく一瞬一瞬の思い
正見にもとづく言葉
正見にもとづく行為
正見にもとづく生活
正見にもとづく精進
正見にもとづく理法を保持し繰り返し念ずること
正見にもとづく正念への全面的な集中

と考えた方が適切なような気がしてます。