無記は無ではない

 たき (153.193.67.30)    
>自我の洞察、自我の成り立ちを洞察することなしには、自我の滅はあり得ないのです。 自我の滅とは、『私という中心がある』という思い込みを滅することです。 『私という中心がある』という思い込みを滅するには、自我がどのように出来上がったかを洞察する以外には不可能で す。
 
これはつまり、今私が自分と思っている、認識してる自分は我(仮でそう呼びます)に対してこびりついたこれまでの経験や記憶ということでしょうか?
そしてそれを解き明かし、解放されることで我になるのでしょうか?
それとも我というもの自体もないのでしょうか?
それならば、それは人間の思う生とは違うということですか?
昨日大念処経を初めて読みましたが、意識もただの現象に過ぎず、我有りという執着から抜け出すことが、智慧の道ならばそれは無我とは違うのでしょうか?
私が思うに、それは洞察や智慧というより客観的(主観的?)に見た状態の違いのように思えます。
人を助けるにしてもその心が見返りを求めているのか心からの優しさで助けたのか、人を助けろと親などに教えられたから助けたのか、状態だけ見れば人を助けたというのが事実ですがその中身を見れば全く違うわけです。
なら悟りとは状態の内面のことであり、そこで理解という本質的な問いに対しての答えが出てきて八正道と四諦などが必要になってくるのですか?

 

 

 

仏陀の真意を解き明かすうえで最も大事であり、歴史上誤解にまみれていたこと、それは『諸法無我』にまつわる誤解です。

 

仏陀が繰り返し言った言葉は、

無常であり、苦であるものを、私、私のもの、私の本体としていいであろうか?

です。

 

これをもって、無常、苦、無我が、仏教の根本とされています。

 

この言葉を、今までの仏教知識や仏教常識、仏教概念を全部白紙にして、純粋な目で見てください。

 

とても不思議な言説です。

 

この言葉を整理すれば、

 

無常であり苦であるものは、私ではない

無常であり苦であるものは、私のものではない

無常であり苦であるものは、私の本体ではない

 

こうなります。

ここから、諸法非我、五蘊非我が導き出されます。

 

しかし、ここで、仏陀は、私の本体があるかないかを言っているのではありません。

しかし、後世の仏教では、すべてには実体がないということを断定したとされました。

縁起だからすべてのものには自性がない、だから実体がない、という論理が確立され、それがあたかも仏教の根本原理であるかのように言われています。

 

仏陀が無記としたのは、十無記と『我についての無記』です。

十無記のうち、4つは如来は死後存在するかどうか、です。

つまり、如来に実体があるかどうかです。

仏陀は、如来に実体があるかないかは無記としたのです。

ところが、後世では、すべてのものに実体がない、如来にさえ実体がないと断定してしまいました。

仏陀が言った、『無記としなさい』『説かれなかったものは説かれなかったと受け止めなさい』という言葉に反しています。

 

仏陀の真意は、無常であり苦であるもの、五蘊などはすべて非我としました。

つくられたものはすべて非我なのです。

つくられたものは、どのようなものであれ、私ではないし、私のものではないのです。

しかし、作られたものすべてを私ではない、非我と見極めたとき、残るものは何か、つくられざるものはあるのかないのか、は無記で答えませんでした。

それは、有ると言えば、人間の心はそれを自我に取り込んでしまうからです。

強固な自我が構築されるからです。

ここが非常に重要なところです。

 

人間は、記憶の束を『私』とし、中心を持ち、限定され、欠乏感に覆いかぶされています。

そのような覆いかぶさったものを『煩悩』と言います。

記憶の束からなる『私という中心』が一瞬でもなくなったとき、そこに圧倒的な無量感があります。

空虚感でも虚無感でもなく無量感なのです。

『私という中心』があるために、無量感が見失われていたのです。

私は、この、『無量感』こそ、心の本来の状態、無量心だと考えています。

 

この『無量感』に180度大転回したところが、『慧』であり『正見解』です。

そこから初めて、八正道が始まります。

その無量感に気づかない限り、八正道はスタートすることがないのです。

八正道は、今までの生き方と真逆、正反対の『全く新しい生き方』なのです。

 

 

ご質問に答えます。

 

>これはつまり、今私が自分と思っている、認識してる自分は我(仮でそう呼びます)に対してこびりついたこれまでの経験や記憶ということでしょうか?

その通りです。

 

>そしてそれを解き明かし、解放されることで我になるのでしょうか?

まず最初に、空間があります。開かれた空間、何の中心のない無限の空間です。ただ、この空間といい無限と言ってもしょせん比喩です。譬えです。そこに無明が形成力として五蘊を集め、感官が生じ、五官の経験、記憶が生じていきます。その記憶の束を識が『私』として認識してしまったのです。ここから苦の集積に向かって押し流されていきます。

 

>それとも我というもの自体もないのでしょうか?

仏陀は無ではなく、無記としました。ここの真意を汲み取るべきです。無としてはいけないのです。しかし、有とすれば途端に執着となってしまう。

仏陀が無記とした理由です。(相応部経典無記相応)

 

>それならば、それは人間の思う生とは違うということですか?

全く違います。五蘊という中心からストーリーを積んでいるように幻想しているのが私たちの『生』です。それこそが、矢であり苦なのです。

 

 

>昨日大念処経を初めて読みましたが、意識もただの現象に過ぎず、我有りという執着から抜け出すことが、智慧の道ならばそれは無我とは違うのでしょうか?

仏陀は、つくられたもの、私という中心を消滅させたところを涅槃と言いました。

そこに我があるだのないだのと言うことは無記としたのです。

そこに実体があるだのないだの、永遠だの永遠でないの、はすべて無記なのです。

しかし、無記としたために、無と思い込む人たちが多くなり、灰身滅智で何もない状態が理想の状態、涅槃としてしまいました。

そのため、『そんなものは仏陀の真意ではない』『煩悩が吹き消された何もない状態が究極と思っているのは大間違いだ。大いなるものがあるのだ。』と叫んで興ったのが大乗仏教です。

その大乗仏教も、結局、『無自性だから如来にも実体がない』としてしまいましたが。

 

 

 

 

 

十無記

  1. 世界は永遠であるのか
  2. 世界は永遠でないのか
  3. 世界は有限であるのか
  4. 世界は無限であるのか
  5. 生命と身体は同一か
  6. 生命と身体は別個か
  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

 

 

 

 

第10経:アーナンダ経。

あるとき釈迦は、ヴァッチャゴッタ姓の遊行者に「(attā)はあるか?」と聞かれ、また「我はないのか?」と問われたが、どちらにも釈迦は回答しなかった(無記[3]。このやり取りを見ていたアーナンダに、なぜ回答しなかったかを問われ、釈迦は答えた。

Ahañca ānanda vacchagottassa paribbājakassa atthattāti puṭṭho samāno atthattāti vyākareyyaṃ, ye te ānanda samaṇabrāhmaṇā sassatavādā, tesametaṃ laddhi abhavissa.
Ahañca ānanda vacchagottassa paribbājakassa natthattāti puṭṭho samāno natthattāti vyākareyyaṃ. Ye te ānanda samaṇabrāhmaṇā ucchedavādā, tesametaṃ laddhi abhavissa.


アーナンダよ、もし私がヴァッチャゴッタ遊行者に「我は存在するか」と問われ、「我は存在する」と答えたならば、
アーナンダよ、それは常住論者(sassatavādā)を説く沙門バラモンと同ずることになるだろう。
アーナンダよ、もし私がヴァッチャゴッタ遊行者に「我は存在しないのか」と問われ、「我は存在しない」と答えたならば、
アーナンダよ、それは断滅論者(ucchedavādāa)を説く沙門バラモンと同ずることになるだろう。