比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、明にしたがう智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。
この相応部経典の言葉は、非常に重要なことを言っています。
『明』=無明の反対 つまり、無明を滅して明に従うときに『正見』が生じる・・・と言っています。
そして、『明』があれば、慚と愧がそれに従う・・・とあります。
慚愧がなければ、それは本当の『明』ではないということです。
慚愧とは、私の言葉で言うと、記憶の束が無量を阻害していたことを知って恥じ入ること、その記憶の束をdeleteすることです。
無明に覆われているときは、記憶の束に気づきさえしません。
想念や思考に気づいているという人も、その思考が生じてくる中心、つまり記憶の束には気づきません。
無明を滅して明が現れ始めて、心の奥底の記憶の束が照らされて見えてくるのです。
後世にできあがってきた仏教は、この慚愧をほとんど無視しています。
現れてくる思考を無理矢理なくすことばかりに注力しています。
無駄な努力です。
懺悔文という短い文章は存在して、仏教者なら唱えるものですが、非常に形式的なものとなっています。
本当の慚愧とは、『明』に照らされて、ちょうど腐った水で出来た水たまりを見ているような、心の底から沸き上がるような恥ずかしさを感じ、deleteしていこうとする力です。