縁の滅は無明の滅

有尋有伺 (49.104.35.15)  

どうやらショーシャンク様は 特にsatiと修行法についてご興味があるようですね!
それでしたらsatiについて更にお話しさせて頂きましょう!
実は憶念は、最初のコメントで記しました水泳方法の例えのように、 例えば中部140では、3段回で思考する内容を変更することとなっています つまり、最初はバタ足だけで泳いでいたのを、 慣れてきたらクロールやバタフライに変えるようなものです。
 
さて、現在のショーシャンク様にお聞きしたいのですが、 今はsatiで何についてどう憶念しているのですか? 出来る限り具体的に教えてくだされば幸いです。 お時間ある時にでもお返事下さい
 
補足① ショーシャンク様はどうも三十七菩提分法に強く拘りを持たれているようで それ故私の水泳方法と大学の例えで申し上げた択法についても三十七菩提分法の中から選ぶと解されたようですが、 私の力不足で適格に意図をお伝えできず申し訳なかったのですが、 私の意図としては、ゴータマ尊の修行法全部を指しています。
 
つまり三十七菩提分法に加えて、同じ涅槃経にある八解脱や八勝処、五蘊非我に六界に十八処など、 経典にある多くの修行法のことですね。
 
確かにゴータマ尊は死ぬ直前に代表として三十七菩提分法を挙げられましたが、 例えば五比丘や息子ラーフラは五蘊非我の「説法」で阿羅漢果に達しましたし、 スッタニパータの「二種の観察」経で「二種の観察」という修行法のこれまた説法で同様に達しておりますし、(更に二種の観察を実践しても達すことができるとゴータマ尊自身も同じ経で仰ってますし) 小部「テーラーガーター」410(中村元先生の訳があります)の サッパダーサ長老に関しましては、 20年間全く成果が出ずに嫌になって、なんと自殺しようと刀を取った瞬間達せられた というような事例も多々あることから、他の修行法も良いものはあるとは思います。 最終的には自己責任ですが、これらも採用されても面白いかもしれませんね。
 
特に、二種の観察はゴータマ尊も悟る直前にやってた修行法なので、たぶんほぼ必須に近くはなるとは思います。
中〜後半のある程度デフォルトで欲がない人向けです。
 
補足② 十二縁起の行で悩まれているようですので、 簡単にヒントをお渡しします、少しでもお役に立てれば幸いです。 さて、なぜ六処が出てくる前に眼・耳・鼻・舌・身・意識が生じるのか、経典が間違っているのか? そんなこと仰ってはいけません笑。 ちゃんと他の経典と照らし合わせればわかるのです。
まず、阿羅漢果は五蘊といいます。
阿羅漢果より下は、五取蘊といいます。
何が違うのかと申しますと、 五取蘊はデフォルトで渇愛がインストールされているのです。
つまり、無明が起こる前から、執着が潜在しているのです。
そして詳細は中部経典18蜜丸経で、九支縁起として解説がなされているので、お時間がある時にでもお読みになられたら良いかもしれませんね。
外でさっと暇つぶしに書き込んだので引用はないですが、 かえってこちらの方が端的で良いかもしれません。 今後ともよろしくお願いします。
 
 
 
 
 
有尋有伺さん、ありがとうございます。
 
>>今はsatiで何についてどう憶念しているのですか? 出来る限り具体的に教えてくだされば幸いです。
 

sati=念 に関しては、私は四念処を念じることが多いです。

特に、ウォーキングの時などに念じるのは四念処ですね。

私の四念処のやり方はこのブログに何度も書いていますので見ていただければいいのですが、身・受・心・法について、一つずつ、無常・苦・非我を観じます。

四念処の解説書には

身は不浄・受は苦・心は無常・法は無我 と観じるとなっています。

しかし、大念処経を見てもわかりますが、それだけでは完全ではなく、身の不浄観(身から大便・小便などが出る)から死体が腐っていくさまをイメージするのは確かに不浄がテーマですが白骨観になると無常、そして非我が強くイメージされると思います。

このように、身・受・心・法について、無常・苦・非我を観じます。

 

 

>>ショーシャンク様はどうも三十七菩提分法に強く拘りを持たれているようで

 

今までの仏教では、あまり重要視されることがなかった七覚支ですが、調べていくと非常に重要なものだとわかりました。

 

パーリ涅槃経においても、サーリプッタが仏陀の問いかけに答えて

『門扉が一つだけの城廓において、この都市に出入りするものはすべてこの門扉を通らなければならない』という喩えをして

『過去・現在・未来のすべての覚者は、四念処のうちに心を安立し、七覚支を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成した』と言っています。

 

すべての悟った人は、四念処と七覚支を修行して無上の悟りに至ったということですから、非常に重要です。

ですから、仏陀の真意を知るためには、何をおいても、四念処と七覚支の的確な把握は必要なのです。

 

 

>>スッタニパータの「二種の観察」経で「二種の観察」という修行法のこれまた説法で同様に達しておりますし

 

スッタニパータの『二種の観察』が、三十七菩提分法や四諦十二縁起と全く別の修行法だとは私は思っていません。

むしろ、原型そのものでしょう。

スッタニパータは最古層の仏典ですから、教えの原型がそのまま残っています。

後世のもののように整えられてはいないのですが、それだけに仏陀の真意を知るには不可欠なものです。

スッタニパータの『二種の観察』は、『苦しみとその原因』と『苦しみの消滅』についての観察法です。

これはまさしく、四諦の原型です。そして、原因の項目をつなぎ合わせていけば、十二縁起の原型となります。

 

 

>>無明が起こる前から、執着が潜在しているのです。

 

『無明が起こる前から、執着が潜在している』とのことですが、苦の根本原因は無明です。

律蔵大品において、仏陀が『縁の滅を知ったのですべての疑念は消え去る』と言った『縁の滅』とは無明の滅です。

十二縁起の連鎖の一番最初は無明です。

無明が起こる前から執着が潜在していては、無明を滅してもまた潜在した執着によって苦が起こることになります。

それでは、仏教の根幹が崩れることになると思います。