集諦

>ところで、お伺いしますが、四諦の集諦には三種の渇愛の集まるさま(ようす)が説かれ、滅諦には三種の渇愛の滅するさま(ようす)が説かれています。
この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。よろしければご教授ください。



十二縁起の順観が、四諦の集諦です。
十二縁起の逆観が、四諦の滅諦です。

それをごく短く簡潔に表したものが『マハーヴァッガ』などのこの文です。

比丘たちよ、集諦とは次のごとくである。
後有をもたらし、喜びと貪りとともにあり、随所に歓喜する渇愛である。それは、欲愛・有愛・無有愛である。

比丘たちよ、滅諦とは次のごとくである。
この渇愛を余すところなく離滅し、放擲し、解脱し、愛著のないことである。


仏陀の説いた、無常(生じたものは滅するということ)、苦、非我の理法がわからないので、無意識的に『私』という好き嫌いのフィルターを作っているのです。

受(感覚)を感じ、その感覚を快か不快かに無意識に分けています。
快の感覚は、長く感じていたいし、繰り返し感じることを望みます。
不快の感覚は、すぐでも排除し、嫌悪していきます。
快の感覚は、快楽の想念となります。
不快の感覚は、嫌悪の想念となります。
想念が繰り返すことによって、観念となります。
その対象の観念に執着するようになります。

これが十二縁起で言う
受⇒愛⇒取  です。

これが私たちが苦の集積に向かう激流に巻き込まれる様です。

受・愛・取が精神を束縛する鎖であり、苦そのものだということが本当にわかっていたら、激流には巻き込まれません。

すべては、触れる対象が、苦でなく快楽であり、非我ではなく私のものだと考えることによって、苦の集積に流されていきます。