夢ということ

高原です。 「与太郎と猫」の落語は、座布団二枚という感じで面白いです。 こないだ、仏教書を二冊、古本屋で買ってきました。その一冊が玉城康四郎の「仏教の根底にあるもの」という本でした。 仏教書は、例えば玉城氏の文でも「十界互具」とか「自受用三昧」など難しい言葉で止まり度々、難渋させられることも多いですが、読んでいて気持ちが落ち着くし、とても読んでいて楽しいです。 玉城氏は法然を高く評価していて往年、一日(木曾義仲が入京した日)を除き仏典を読まなかったことのないほどの勉強家で、比叡山での出色の天才であったことが書かれ、その法然の夢に紫雲たなびく中に善導(中国の高僧)が現れ、告げ、その夢によって自分の思想の問題を解決し、確立したり、晩年には、これも夢かと思いますが「自分(法然)はもと天竺(インド)の声聞僧にまじって頭陀行をしていた」と語ったりしています。 弟子の親鸞も六角夢告を重要なターニングポイントとして夢を思想の確信へと据えてゆきました。 ぼくも、首を吊って自死した幼なじみの秀才の友人がずっと繰り返し夢に現れ、彼の部屋に招かれたり、一緒に歩いたりする夢を見て、(ここ二年くらいはぱったり出なくなりましたが)ぼくも、現実の生活も生と死の瀬戸際を生きてきた感もあって、これほど自死した友人に付きまとわれるということは、ぼくに前生があったらそこで自死していたのかも知れないと思ったり。 ぼくのことは、ともかく、法然親鸞など昔の人たちは、それほど、夢に意味を見て、自らの人生を方向付けていったことを、ショーシャンクさんはどう考えますか?

 

高原さん、おはようございます。

夢といえば、明恵上人が自分の夢の記録を『夢記』として残しています。夢のほとんどは、日常生活の雑多な想念が浮かんだようなものが多いのですが、死んだ人を夢に見てそれが全然生前の記憶とかではないこともありますね。霊的なものだろうと思います。

法然に関しては、夢ではないですね。この人は霊覚があって、仏の姿も夢や幻想や観念ではなくて実際にありありと見ていたようです。闇の中でもわかるくらい光を発していたり読経しているのをそっと覗いてみると体が浮き上がっていたりしたこともあったとか。病を治す神通力もあったようです。

そして本物は、そういう神通力を求めることは一切しないし、神通力があったとしてもそれをひけらかすことは絶対にありません。そういう意味で法然は本物でした。

そして臨終のときにはじめて『私は極楽から来たのでそこに帰るだけだ』と明かします。

それに対し、親鸞は、六角堂で夢に聖徳太子が現れ

『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』と言ったそうです。聖徳太子が『あなたが宿業で女性を犯さなければならないなら、私が美女となって犯されましょう』なんて言うかな、というのが正直な気持ちです。親鸞の願望が夢になったような気がします。

 

夢の99%以上は日常生活のとりとめもない思いが沸き上がっただけのものです。夢が自分の願望や欲望を表したものである以上、寝ているときに見る夢を重要視してはいけないと思います。ごくごく稀に、本当に霊界に行ったような夢を見ることはあるでしょうけど、霊界と言えどもしょせん現象にしかすぎません。物質界と同じ、泡のようなものですので霊夢であっても重要視すべきではないと思っています。

 

夢に関する私の考えはそういうものですが、今回の質問をきっかけに久しぶりに『仏教の根底にあるもの』を読んでみると面白いですね。

玉城康四郎は、やはり親鸞道元が最も関心事のようで、私が書くと批判的になってしまいますが、久々に書いていこうと思います。

 

 

「仏教の根底にあるもの」は、他の本も読んでいるので、まだ途中までしか読んでません。前書きで玉城氏が書いていますが「仏教の根底」とは原始仏教の意味なんですね。玉城氏は性見してきたものを原始仏教の経典の中に発見したと言ってます。答え合わせをしたんです。 法然の神通力の話は、言われても俄かにはそのまま信じることは難しい不思議な話ですが、不思議と言えば、玉城氏が「心の時代」に出演した時、祖父の臨死体験の話をしてます。お坊さんがお経まであげた後、祖父が息を吹き返し「あのとき死んでおったら地獄に行ってたとこだった」と、その時のことを言い、それから人が変わったように信仰深くなって猛烈に聞法し、玉城氏は「あのとき、祖父は地獄に落ちて見てきたとしか思えない」と言っています。 ぼくも若い頃、夢であの世に行ったことがあるんですが、それが夢とも思えない不思議な夢で、海か大きな湖か分からない波ひとつない水辺の大きな窓のある館に自分がいるのですが、これまで経験したことのないほど心が穏やかで心地良いのです。 館には机に座った年配の女性がいて、ぼくにノートを広げて見せて何やら話しているのですが何を言っているのかあまり聞き取れませんでした。館の中で、また、ぼくはあるものを見て、目が覚めてから「こういう意味では?」と解釈して、何を見たかは話せませんが、偶然かも知れませんが、そのとき解釈いたことが、それからの人生でそのまま現実になりました。それは普通の人ではあまり得られない(世俗的な)幸福というか幸運なことでしたが。

 

それは霊夢でしょうね。霊夢や予知夢というものは普通にあるのだと思います。しかし、夢の大部分は日常生活の雑多な念が混ざっていますから、起きた時にわけのわからないストーリーとして思い起こされることが多いのでしょう。

聖人には、神通力を隠そうとしない人とそうでない人がいますね。

空海日蓮は、仏法の力でこの世を密厳浄土や仏国土に変えてみせるという信念がありましたから、多くの神通力を発揮してそれを隠そうとはしませんでした。

しかし、法然は数多くの不思議なことがありながらそういうことにとらわれないように言います。クリシュナムルティもそのタイプで、友人の見舞いに病室に入ったらその病室の全員の病が治ったというような不思議な出来事が数多くあります。しかし、それを絶対に公にすることはありませんでした。