仏教についてのひとりごと 47

根底に持続的なもの、持続的な意識活動があるのであれば
それは実体があるということです。
ですから、【変化する我】の根底に持続的なものを認めるのであれば
無我というのは間違いということです。

アートマンも表面上は変化していきます。
無明や錯覚により様々な条件が【付託】されていくからです。
しかし、その付託が幻想だと悟ったときに、自己の根源であるアートマンが宇宙の根源であるブラフマンと同一だと悟るのです。

仏陀は、ただの一度もアートマンを否定したことなどありませんでした。
もし、反論があるなら、仏陀アートマンを否定した、その原典を挙げてください。
できないはずです。

仏陀の真意は【諸法非我】なのに、【諸法無我】として
【万物には恒常的な実体はない】と解釈したために、仏教はねじ曲がっていきました。
そして、そのアンチテーゼとして、大乗仏教が興り、仏性という永続する実体を説き始めたと考えています。

 

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なぜかコピーができないので、
要点だけ書き込みます。

松本史郎『縁起と空』の中の仏典引用文です。
『縁起と空』の本は持っていますが、いまどこを探しても見当たらないので
見つけ次第、詳しく書き込みます。

『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
ブラフマンとなったアートマンによって住する』

これが仏陀の言葉そのものです。

 

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超越的本源を想定し、我々は皆それを分有しているという考え(その本家本元が「梵我一如」)は仏教ではない、という小論を書こうと思い、松本史朗「縁起と空」大蔵出版を読み返していたら、まずいものを再発見してしまった。「第五章 解脱と涅槃-この非仏教的なるもの」である。

 この論文において、松本先生は、「解脱や涅槃という考えは、アートマンが覆いから解放され離脱すると考える我論であり、反仏教思想である」と主張しておられる。(ニルバーナを、「吹く」という語根にもとづき「火の吹き消された状態」と解釈するのではなく、「覆いをとりのぞく」という語根から解釈する。)
 その証明の為に、スッタニパータをはじめとする初期経典から多数の用例を引いて、いかにアートマンが積極的に説かれているか示しておられる。しかも、中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきたという。

 

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スッタニパータなどの最古層の仏典において
仏陀は、アートマンブラフマンも積極的に肯定しています。
否定している箇所はただの一つもありません。
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 [このように、初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している。
まず道徳的な意味における行為の主体としての自己(アートマン)を行為の問題に関する前提として想定している(下線筆者)。
例えば『自己の義務を果たす者』(attano kiccakari)であるべきことを教え、自己(アートマン)が善悪の行為の主体であると考えている。
さればこそ修行者は己れを策励して(pahitatta )修行に努める人なのである。
そうして『自己をあるがままではなくて、異なって誇示する人』は貶斥されるのである。
さらにまたアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥されているのであるから、アートマンアートマンと見なすことは、正しいことなのではなかろうか。
聖典自身は明らかにこの立場を承認している。
原始仏教においては自己(アートマン)を自己(アートマン)として追及することが正しい実践的目標として説示されている。
すなわち真実の自己を求むべきことを勧めている。
律蔵(散文の部分)の記述を見ると、釈尊は遊楽に耽っている青年たちに向かって、「婦女を尋ね求めること」よりも『自己(アートマン)を尋ね求めること』(attanam gaveseti)を勧め、そうしてかれらを出家せしめたという。 
ところで『自己(アートマン)を尋ね求める』ということは、実はジャイナ教において説くところであり、表現の文句までも一致している(samcikkha'ttagavesae)。

 

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さらに原始仏教においては自己を愛することを教えている。
アートマンは愛しきもの(piya)である。或る小さな神(devata)が『子に等しい愛しいものはない。』といったのに対して釈尊は『自己(アートマン)に等しい愛しいものはない。』と答えた。
 これは明らかに哲人ヤージニャヴァルキヤが『ああ、実に夫を愛するが故に夫が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に夫が愛しいのである。ああ、妻を愛するが故に妻が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に妻が愛しいのである。ああ、子らを愛するが故に子らが愛しいのではない。アートマンを愛するが故に子らが愛しいのである。』などと説いた教説にちょうど対応するものである。

 原始仏教においては、まず人間が利己的なものであるという現実の認識から出発する。  
 或るときパセーナディ王は、マッリカー妃とともに美麗絶佳なる宮殿の上にいたことがある。インドの宮殿は屋上が平らで歩んだり休息することができるようになっているので、妃とともに風光を楽しんでいたのであろう。 
 そのとき王は妃に尋ねた。『マッリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね?』王は或る答えを予期していたのであろう。甘い答えをーー。ところが妃ははぐらかしてしまった、ーー『大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません。』最愛の人々の間でさえもこうなのである。
 人間の実存のとぐろなす坩堝が露呈している。妃はさらに反問した。『大王さまよ。あなたにとっても自分よりももっと愛しいものがありますか?』『マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何もない。』王はおそらく興ざめしてがっかりしたのであろう。
 かれひとり宮殿から下りて、釈尊のところへおもむいて、右の次第を告げた。そのとき釈尊はこのことを知って次の詩句を唱えたという。
 『思いによってすべての方向におもむいても、自分よりもさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人(attakama)は他人を傷つけるなかれ。』