仏教についてのひとりごと 80

なぜ、あの話の流れで唐突にこの詩を取り上げたかと言いますと
実は、この詩は私が20歳くらいのときに書いた詩だからです。
赤い実さんがおっしゃるように、そのころわたしは早朝に公園の芝生の上で少し瞑想してたりしましたが、そのときに思い浮かんだものです。
そのころ、華厳経法華経を読み、瞑想や坐禅をしていましたが、そうすると、無限や永遠に触れた気持ちになったり意識が拡がる気分になったりするのですが
人格や精神は卑小なままで何も変わりませんでした。
その後は社会に出て、世俗まみれ煩悩まみれになっていくのみでした。

また、坐禅をして見性をしたという人も、癇癪もちだったり人格が破たんしていたりすることもあります。
仏教者などと自分を誇っている人ほど人格ができてないこともしばしばです。

それが長年の謎でしたが、玉城康四郎の『ダンマの顕現』を読んで謎が解けました。
玉城康四郎博士は、日本でも稀な真摯な求道者で、これ以上の修行をした人も少ないのではないかと思えますが、ご自分でも『大悟体験、爆発体験を何回してもいつも数日で元の木阿弥になった』と書かれていますし、宮元啓一氏の著作では『玉城氏は最晩年、自分の仏教理解は間違っていたと周囲に漏らしていた』と書かれています。
宮元氏の書いていることが本当かどうかはわかりませんが、『ダンマの顕現』を読む限り
坐禅や念仏(玉城氏は浄土真宗の熱心な門徒の家でした)だけでは
玉城氏のいう『我塊』が全く変わらずに存在すると書いていて、執筆時の79歳の時はそのことが最大の課題だったように思えます。

私の書いたあの詩は、無限や永遠を感じたりする気分になることはあっても、人格の転換が起きない、中心の消滅が起きないのでは意味がない事例として挙げました。

 

 

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<<四諦十二縁起による瞑想というのは、玉城氏はされなかったのでしょうか。>>

私が知る限り、四諦の瞑想や十二縁起の瞑想をする人や団体はいません。
四諦は、仏教の基礎知識として、入門書にはその表面的な解釈が載っているだけで
それを見たところで、誰もそれが解脱に導く【最勝の法】だとは思わないでしょう。
また、十二縁起は仏教学者も匙を投げるくらい難解で、解き明かした人もいないですし
まして十二縁起を瞑想する人はいないでしょうね。

『ダンマの顕現』では、玉城氏は50歳近くなって、それまで坐禅で見性を認可され公案も次々と解いていったもののいつも元の木阿弥になるということで
仏陀の禅定を学ぶことにした、とあります。
そこで、仏陀成道のときの3つの偈に出会い、ダンマの顕現を体験した、とあります。

 

 

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<< 仏陀成道のときの3つの偈とはなんですか? >>

仏陀が初めて悟りを開いて、十二縁起を順逆瞑想し解脱に至った、そのときに仏陀自身が詠んだ詩です。

玉城康四郎氏の訳・解釈を載せます。

①初夜の偈
実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれは縁起の法を知っているから。

②中夜の偈
実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから。

③後夜の偈
実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである。

 

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<<ダンマの顕現を体験 というのも、何を指すのかわかりません。>>
<<よかったら、教えてください >>

玉城氏は
『ダンマの顕現』とは、『形なきいのちが全人格体に顕わになる』と解釈しています。

 

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<<自らも、十二縁起を瞑想してダンマの顕現に至った、というのであれば、79歳の時の嘆きというのは、なぜ起きたのだろう、という疑問になってしまうのです。>>

ここが最も重要な核心部分だと考えています。

玉城氏は大正4年生まれです。
東大に赴任した昭和三十五年に安谷白雲老師に参禅することになった、と書かれていて
その老師に見性を許され、次々に新たな公案を解いていった、とあります。
その後、公案禅では、どす黒い我塊が放置されると考え、仏陀の禅定を学ぶことを決意した、とあります。
ですから、仏陀の禅定を学ぶ決意は若くても五十前かと思います。

お尋ねの疑問についてですが
私の結論からすると、玉城氏は十二縁起を瞑想していません。
あの3つの偈の玉城氏の解釈は間違っていると思っています。
日本の仏教者の最大の間違いは、
原始仏典を大乗仏教の教義で解釈してしまうことです。

玉城氏は、『ダンマ』を『形なきいのち』と訳しました。
そして、『ダンマの顕現』とは、『形なきいのちが全人格体に顕わになる』と解釈して
ちょうど道元が言った『 仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。』の言葉で解釈したと考えています。

『ダンマの顕現』執筆時の79歳の時は、玉城氏は嘆いてはないです。
我塊、つまり業異熟、業熟体の問題は解決はしてないようですが、今までのやり方を続けていけば解決できるように思われていたと思います。

しかし、宮元氏の著作によれば、玉城氏は最晩年に仏教解釈が間違っていたと嘆いたとのことでした。
そのことは、玉城氏の著作には出てないので、本当がどうかはわかりません。

 

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<<玉城氏の亡くなる年の最後の年賀状が載っていて、>>
<<「偉なるかな、寿(いのち)の主(あるじ)、ただひとりの指揮者、アートマン、1999年元旦」>>
<<と最後にありました。>>

これは衝撃的な年賀状ですね。
晩年、諸法無我説を捨て去ったのでしょうか。
仏教学者がわざわざ人に出す年賀状に『偉なるかな、寿の主、ただひとりの指揮者、アートマン』と記すとすれば、玉城氏が「私の仏教理解は間違っていた」と言ったのは、諸法無我に関してかもしれませんね。
確かに、諸法無我、はおかしいのです。
歴史上の仏陀は、『無常であって苦であるものを、われ、わがもの、わが本体としていいだろうか』と言ったので、明らかに諸法非我です。
『主体があるとかないとか、霊魂があるとかないとか』は無記としました。つまり言いませんでした。
それは、そのような哲学や形而上学が何ら解脱に涅槃に赴くことに役に立たないから、とはっきり言っています。
それなのに、仏教徒たちは、『諸法無我』を三法印の一つとし、縁起を哲学的に解釈した龍樹説を仏教の根幹としてしまいました。
大間違いです。


<<やっぱり「元の木阿弥」になって、体験をする前と何も変わらなくなりました。>>

ここが問題ですね。
玉城氏の『ダンマの顕現』を読むと、凄まじく熱心に修行されています。
大悟も数えきれない感じですが、それでも元の木阿弥になったと書いています。
あれだけ、20代から79歳の執筆時まで何百回と悟り体験しても我塊がそのままならわれわれはどうしようもなく、何かが違っていると思わざるを得ません。

 

 

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<<ええと、すみません。 「ダンマの顕現」という本を出された79歳以降もご健在でいらして、
<<その後、最晩年に、仏教解釈が間違っていたことを嘆かれた、ということですね。>>
<<ああ、こういうことですね。 「ダンマの顕現」という本を執筆するほどの大きな体験が、>>
<<それより若い頃にあったのだけれど、やはり最晩年になっても、我塊は見受けられる。>>
<<そこで、ご自分の仏教解釈が間違っていたのだろう、と嘆かれた。>>

そうです。
玉城氏は84歳で亡くなっていて、『ダンマの顕現』は79歳の時の著作です。
玉城氏が自分の仏教理解が間違っていたと周囲の者に漏らした、という話は
宮元啓一氏の著作にのみ書かれていることなので、本当かどうかはわかりません。
玉城氏の最晩年の著作をAmazonで注文しようとしましたが、品切れです。


<<己が無である時、形なきいのちが顕わになる、というようなことなのでしょうね。>>

玉城氏は日本の仏教者によくあるように、大乗仏教の考え方、教理で、原始仏典を解釈しています。
ダンマを形のない大生命体と解釈し、『縁起の法』をあらゆるものは相依性、関連性で成り立っていて自性がない、実体がない、空であるという真理と捉えています。

 

 

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