確信の強まり

ブログは、あまり気を使わないでも、ショーシャンクさんの好きな時に更新すればよいと思います。 玉城宏四郎の「仏教の根底にあるもの」は読み終わっていますが、その玉城氏もショーシャンクさんに教わらなければ、全く名前も知らない学者さんでしたが、少し、玉城氏はショーシャンクさんに似たところのある人ですね。 「仏教の根底にあるもの」の「仏教の未来」という項で「最近わたしは、仏教の中心的立場は無あるいは空であるという一般的見解に対して、基本資料の上から疑念を持ち始めており」と玉城氏は書いていて、玉城氏が原始仏典調べているうち「仏陀によって説かれている業異熟という想念に出会ったとき、長いあいだ悶え煩っていた探しものが不意に目の前に現れた思いで、私は小躍りして歓喜した」と語っています。 「そうした業異熟の実質は何であろうか。それは、まさしく我執と煩悩の底知れない渦である。個体的であるばかりではなく、共同体そのもの、世界そのものの、絶えるこtpなく噴き出してくる我執である。いわば、密林の山中深い値の底より、掘り上げたばかりの、みずみずしいどす黒い鉱物である。仏陀によってそれは無明と呼ばれた。しかるに、その後の仏教思想史は、この無明の課題に徹底して立ち向かわなかった」と玉城氏は言っています。 「業異熟」とは母親の胎内に宿った瞬間に凝結するものともとらえていて「生まれ変わり死にかわり、死に変わり生まれ変わりして輪廻転生しつつ、今、ここに現れている存在の統括体である」とも書いており、最終的な課題として自らに課してはいるものの、玉城氏も真摯に仏教、あるいは人の心の問題に立ち向かってきた人だと思います。

 

仏陀の真意に関しては、かなり考えがまとまってきました。

そして、仏陀の真意が全く伝わっていないという確信もますます強まっています。

仏陀が残してくれた『筏』を復活させること、これは本当に重要なことだと思っています。いま、その筏を具体的なものとして復活させそれを自分で試してみること、それに注力しています。

玉城氏は、大学入学した年の夏休みに、先輩のアドバイスにより、華厳経を読むことに没頭します。書き下し文をわからないままに読んでいると何か大きな力を感じたといいます。

それに倣って、最近、また、国訳大蔵経の『華厳経』(書き下し文)を最初から読んでいます。

確かに、華厳経には大きなものを感じますね。

大乗仏典のツートップは、法華経華厳経でしょうね。中国ではずっと、この2つの流れで、性具説と性起説に分かれて争っていました。

大乗仏教仏陀の真意の復興運動であったとすると、やはり仏陀の真意がわからないと大乗仏教もわからないということです。

 

仏陀によってそれは無明と呼ばれた。しかるに、その後の仏教思想史は、この無明の課題に徹底して立ち向かわなかった』これは本当にその通りですね。

すべて、安易に安易に流されて行って、とうとう天台本覚思想やその影響を受けた安易な思想に仏教全部がなっていきました。

 

『ただ見ればいいだけ』『ただ気づいていればいい』『自分なんてないんだからそのままでいいんだよ』『すでに救われているのだからありのままでいい』

このような言葉がいかに人類を仏陀の真意から遠ざけてきたか、です。

 

とにかく、自分で実証してから自費出版に残したいと思っています。いつになるかはわかりませんが。