落語にこういう噺があります。
熊吉が長屋の自分の家の前で、七輪で魚を焼いていました。
そこに与太郎が通りかかったので、熊吉は
『ちょうどよかった、与太郎。ちょっと用事があってここを離れるからその間この魚を見ておいてくれないか?』
与太郎は『ああ、いいよ。』と答えました。
与太郎は七輪で焼かれている魚を見ていました。
熊吉が用事を済ませて戻ってみると、魚がありません。
『与太郎、魚はどうした?』
『猫が咥えて持って行った。』
『お前、どうしてたんだ?』
『見てろと言われたから、ただ見てた。』
『ただ見る』『ただ気づく』という言葉を聞くたびに、この話を思い出します。というのも、さかんに『いつも気づいている』という人に限って、我塊、自我が強いようにしか見えないからです。
与太郎には魚を盗られてはいけないという意識はないし、魚を盗る猫が悪いという判断もありません。
与太郎が見ていたところで、猫が魚を盗るのを阻止することはできない、まさに『すべてはただ起きている。自分に何もできることはない』という言葉のようです。
はたして、『ただ見る』ことで無限の大海へと到達できるのでしょうか。