高原さんからタキタロウさんへのコメント

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、タキタロウさん、こんばんわ。
タキタロウさんは「教えてやる」圧の強い人なので、どんな凄い方なのかと、こちらも圧倒されますが、おっしゃっている中身が少々薄いのが残念です。
例え経典に書いてあることでも、盲目に信じ過ぎず、時には自分でも考え(智慧)ないと暗愚となることがあります。
 
「救う」ということを重要視されていることは分かりますが、さて、ご自分は救われていらっしゃるのでしょうか?
「自利行」と「利他行」をバランス良く行うとおっしゃっていますが、釈迦でさえ梵天勧請を受けるまで一度も「利他業」は出来ませんでした。
釈迦ですら出来なかったことを「自利行」「利他行」の同時進行が我々凡夫に出来るものでしょうか?
川で溺れている人が溺れている他人を助けようとするようなものです。
 
お寺の仏像を「仏」と「菩薩」を見極めようすると、「仏」は粗末な衣一枚で、「菩薩」は金銀の宝飾品をつけ、髪も美しくまとめ、宝石もつけています。
「菩薩はまだ悟っていないから世俗的」なんだそうですが、その菩薩の姿こそが仏教の「菩薩観」なのです。歩くとチャラチャラ宝飾品やら宝石の音がするような人が衆生を救うとされているんです。
釈迦のサンガに行っても追い払われるレベルです。
「菩薩像は釈迦の王子時代の姿」と言う人もいますが、釈迦の王子時代はただの金持ちの遊び暮らしている放蕩息子で衆生を救ったということもなく、これもおかしな話です。
 
大乗仏教の祖とされる龍樹は南インドの生まれで、当時の南インドには十二使途の一人トマスがキリスト教教会を作って伝道の拠点としてました。
ぼくは、龍樹は子供の頃、キリスト教の教えを受けていると考えています。
龍樹は釈迦の仏教とキリスト教を合体させたのです。
「慈悲」と「博愛」とてもよく似ていて、キリスト教の「奉仕」は大乗仏教の「利他」へとなって行ったと見ています。
「病老死」が「苦」だとおっしゃいましたが、そこまでではちゃんと仏教は理解できません。釈迦は「人が存在していること」「生きていること」そのものが「苦」だとしたのです。それは理屈の上での「苦」ではなく、実感としての「苦」でなくてはなりません。
 
「無財財の七施」の話をなさいました。良いお話だと思いますが、「にこやかな笑顔を施す」とか、その程度の話は会社の研修セミナーでもやるくらいの内容です。
表面的に変わって印象をよくするのではなく、自分そのものが本当に仏に近づいて変わってゆけば、自然に普段の所作も正しく変わってゆくものです。
 
 
崇敬なさっているマザーテレサのお話ですが、だいぶ以前からマザーテレサを精神科医がサイコパス(反社会性精神病室者)だったという報告をしているのはご存知ですか?
オタワ大学の研究チームがマザーテレサの起こした奇蹟を検証したところ、すべてが科学的に証明出来たトリックだったといいます。サイババのようなものですね。
 
黒い政治家との交際、巨額な寄付金の管理疑惑、赤ん坊の人身売買が明るみになって非難を浴びましたね。
勢力挽回にカトリック教会がマザーテレサを広告塔に利用していたとも。