激流の中にいよ??

石飛先生のマニカナホームページで、芳和という人の石飛先生への罵詈雑言が酷くなっていますね。

「お前も阿修羅だ!」というスレッドを立ち上げています。

芳和さんは、『石飛先生のヒステリックな矢島羊吉先生批判に「お前も阿修羅だ!」と直観されました。』と書いてあることから、この『お前』というのは石飛先生のことのようです。

芳和という人、大丈夫なのでしょうか?いろいろ心配になります。

 

その芳和という人が

『紀野一義先生は、「大般涅槃経」の釈尊最後の言葉を「比丘らよ、汝に告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなく、その中に居よ」と訳します。今思えば「その中に居よ」というのは、「十界に輪廻する自己を、注意深く見つめよ」ということなのでしょう。』

と書いています。

どこかで見たような文章だと思いましたが、これはヤフー掲示板のわたしのスレッドに投稿していた紀野一義のヘンテコな訳ですね。そのときわたしに否定されたので、解釈の結論を少し変えて来ていますが、まだあの仏陀最後の言葉をこういうヘンテコな訳で解釈しているようです。

以下、そのときの投稿を載せます。ピンクの文字が芳和(和弘)さんの文章です。

 

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仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言ったのか、どうしてもわかりませんでしたが
最近、そのわけがはっきりと見えてきたような感じです。

無量の精神がおぼろげながらでも感じられてくると、人間というものが、肉体の感覚、五官によって毎瞬毎瞬、いかに制限され、限定され、欠乏感へと押し流されているかが見えてきます。
それはもの凄い激流であり万力のような強い力であり、引き摺り込まれる汚泥なのです。
今、この瞬間でも、無量のものから引き離そうとする力がいかに強力なものであるか、これを本当に見ると、仏陀の言う言葉の一つ一つが身に沁みてきます。

特に大乗仏教は悟りや救いの大安売りですが、『激流』を見てしまうと、そんな甘いものではないなと思ってしまいます。

 

<<大乗の場合は、「諸行無常に渦中にある自己」を覚る。言い換えれば「激流の渦中の主体」の自覚でしょうか。>>

 

あなたは、『激流』を見ていません。ただ、本の中、掲示板の中の『激流』という言葉を『煩悩』だとか『無常』だとか『自我』だとかいう言葉に置き換えて観念で理解したつもりになっているだけです。

 

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

数々の凡庸な仏教学者が仏教なるものを仏陀の真意からかけ離れた似非仏教に仕立て上げていきました。

紀野一義もそうですね。「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」などとよくそんな馬鹿な訳ができたものです。

サンカーラ=行 を『こころ』と訳すのも大間違いですが、『見落とすことなくその中に居よ』???勘弁してほしいところです。
仏陀が生涯をかけてあれほど『厭離しなさい』と繰り返した意味がまるでわかっていません。

 

さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。
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この訳はパーリ語から日本語に直接訳したもので、あなたがいうような『中国人』は関係ないですね。

 

 

<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです>>

 

あなたには仏陀の理解は無理のようです。
龍樹の観念論に心酔して、自分が心で捏ねくりあげた理論を無理やり原始仏典や大乗仏典の解釈に当てはめて独善的な観念を強めているだけだからです。
「怠ることなく精進せよ」をこともあろうに『あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義』と言うとは、あなたには仏陀を語る資格もない。


八正道の6番目は正精進です。

仏陀の教えの根本である精進が『あわれむべき苦行主義』???

精進を苦行というとは!!!

あなたの捏ねくりあげた観念論ははっきり言って似非仏教です。

 

 

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

 

さて、問題の仏陀最後の言葉は


vayadhammā saṅkhārā  appamādena sampādetha


です。

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 行  事象  すべてのものごと 
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。

 

私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。

 

このパーリ語の原文から、どうしたら
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ。』になるでしょうか。
絶対になりません。

 

<<中国人って「インドの言葉を中国語に訳して、またそれを日本語に訳した仏道の翻訳家達」の誰かの事だと思う。>>


パーリ語から日本語に直接訳しても、上記の意味です。
紀野一義の訳は全くの間違いです。

 

<<釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。>>


行じることを重んじたから『 怠ることなく修行を完成なさい』と言ったのです。

 

 

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和弘という人も、他のスレッドでやってほしいんですよね。
私のこのスレッドで、仏陀の言葉をトンデモ解説されると、どうしても反論してしまいます。
もう、あまりにも仏陀の真意からかけ離れすぎているので、指摘するのも疲れてきました。

他のスレッドでいくら何を言っても私には何の興味もないですから、他のスレでお願いしたいです。
何度もそう言っているのですが、このスレにトンデモ解説を書き込んでいきます。
何が目的なのかがわかりません。

 

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<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです。釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。「激流の心を見落とすことなく、注意深く、見落とすことなくそのなかに居よ」あくまで行において、激流の随所においてですが、「今・ここを、深刻にならずに真剣に生きる」ことを心がけたいと思います。〈いのち〉は刹那生滅という、激流の「今・ここ」の連続なのですから、かけがえのない「今・ここ」を大切にしたいものです。>>

 

このように書いているのは、仏陀とは正反対のことです。
激流の中に居よ????ですって?とんでもないことです。

私を含めすべての人類は、激流の中に居て圧倒的な力で押し流されているのです。
だから、仏陀は【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】と教えました。
激流の中に居てはいけない、島を作ってそこに避難しなさい、ということです。

そして、【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】とは何か、と言って
それは四念処観だと示しました。

仏陀はその生涯において、人類に向かって『あなたはいま激流の中に居るんだ。すぐそこから逃げなさい、離れなさい、島を作りなさい、向こう岸に渡りなさい』と言ったのです。
そして怠ることなく、島を作って激流に流されないようにするように言ったのです。

それを、『激流に居なさい』とか『怠るなというのは苦行主義』とかいうのは
仏陀の教えと正反対の妄言だとわかりませんか?