筏とは

  [No.21893] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 14:43:38

石飛先生、こんにちは。

おちこぼれさんにも書きましたが、今日はあと何十分かで遠方にでますので、簡潔に書きます。
先生が終わりと言うことであればそれでも結構です。
昨日の時点で終わりにしようと思っていましたから。


『蛇喩経』で語られる『筏に喩えられる法』とは、仏陀が説いてきた優れた善い諸法のことです。
そのような諸法、善法であっても、筏なのだから、向こう岸に着いたら、頭に乗せたり肩に担ぐかせずに捨てるべきだ、ということです。

七覚支のうち、択法⇒精進(四正勤)は、不善法を捨断し善法を残し増大させることです。

激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。

善法は筏なのです。
先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。

そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。


これで、今日は書き込みできません。

後は、おちこぼれさん、よろしくお願いいたします。


 

  [No.21898] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/19(Sat) 08:54:38


> すでに起こっている悪は捨断し、未来の悪は生じないようにする、生じていない善は起こるように努力するなどなど。筏の喩えの法を用いますと、これらであっても「渡るためのものなのであって執っておくためのものではない」と知らねばならない、ということです。
> 受持したら、四正勤を捨てるべきだということでしょう。(受持する前には捨てられません。)


そうですか。
四正勤とは精進のことです。
精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。



> なぜでしょうか。
> 執っておいて抱えてはいけないからです。すぐれた善い法なら執っておいて、渡った後で捨てればいいだろう、というその気持が、「蛇喩経」の後半に書かれる、「おまえたちのものではないものを捨てなさい」に抵触し、そうして抱えることによって不利益や苦しみをもたらすことになるからなのです。

どのような教えに対しても、欲貪を起こしてはいけない、と言うことだと思います。
これは、世界での宗教戦争の数々を見ればその通りで、筏の喩えは仏陀の凄さだと感じています。



> もし、自分だけは大丈夫と思うなら、筏を抱えて渡ってみてください。


ここがおかしいと思います。
仏陀が言ったのは、向こう岸に着いたら、つまり陸地に上がったら、それでも筏を頭に乗せたり肩に担いだりするだろうか、と言うことです。
筏は激流を渡るためのものです。
いままさに、私を含めた人間は、激流の中にいるのです。
筏がないと溺れてしまうのです。苦の集積に向かって激流に押し流されていくのです。
このありさまを本当に見たときに、筏がいかに必要なものかがわかります。
本当に激流のなんたるか、激流の怖ろしさを見たことがない人、気づいたことがない人には、仏陀が言った激流の本当の意味さえわからないのです。

筏を抱えることができるのは陸地に上がってからです。激流の中で流されているものが、筏を抱えることなど出来ません。激流にいる者にとっては、筏は命綱なので、壊れないようにしていかなくてはいけないのです。

『筏を抱えて渡ってみてください』という言葉が出るのは、ひょっとすると,私が考えている激流や筏の意味と、先生が考えている激流や筏の意味が全く違うのかもと言う気がしています。



> > 激流を筏で渡っているときには、筏は破れないように強くしていかなくてはいけませんが、煩悩や不善法などの浸水は捨て続け、防ぎ続けなければ沈没してしまいます。
>
> 向こう岸に渡る筏は、どうすれば強く破れないのでしょうか。
> ブッダの言うとおり、どんどん捨てることによって軽く強い筏になるのではないでしょうか。苦しみにいかないのは、捨てることによるのです。


筏とは仏陀が説いた理法のことです。
筏を破れないように強くするのは、理法を常に念じることです。理法を心に留めて繰り返し繰り返し観じることです。
念=sati の本来の意味は、記憶、憶念です。
仏陀の理法を記憶し、つまり心に留めておき、忘れずに繰り返し繰り返し念じること、これこそが念=sati です。

今は、satiというと、『気づき』と解釈して、自分の感覚をラベリングしていく技法がsatiだとなっているようですが。



> > 善法は筏なのです。
> > 先生は、まだ向こう岸に渡っていないうち、激流に浮かんでいるときに、筏である善法をもどんどん捨てていけ、とおっしゃる。
>
> 法は、いくつもあるのですよ。四正勤だけしか説かなかったわけではありません。適切につかんで得たら、それを捨てる。。つまり、法に対する執着が生まれる前に捨てるのです。執着とその滅も縁起によって得られます。
>
> それに、また必要になったら、あらためて受持すればいいではありませんか。
>
> > そんなことをしたら、筏はバラバラに壊れてしまいます。
> > 筏は、向こう岸に着くまでは、捨ててはいけないのです。
>
> 筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。
>
> まあ、渡ってしまえば、どうでもいいんだけどね。


仏陀の理法を知るまでは、人間の心には、不善の法が100%なのです。
肉体を持ち、感官を持ち、その感官が絶えず感受し、感受に好き嫌いが生じ、楽受は執着に、苦受は嫌悪になり、その感受の記憶を繰り返すことによって強固な観念が次々と生まれます。
また、親や教師、仲間や世間、マスコミによって様々な考えがふき込まれます。
そのすべてはmohaです。
そのmohaはさらにragaやdosaを生み続けます。

このように不善の法や煩悩は生み出され続けており、増殖に増殖を重ねています。

このような人間の有り様をまざまざと見たときに、仏陀の理法を筏とし、島とし、洲としないと、その激流に押し流されていくのがはっきりとわかります。

仏陀の凄いところは、そのような仏陀の理法でさえ、『向こう岸に渡ったら』捨てなさい、と言ったことです。

しかし、はっきりと『向こう岸に渡ったら』と言っています。
向こう岸に渡ってもない、激流に押し流されているときに、筏を捨てろ、などとは仏陀は一言も言っていないのです。

> それに「蛇喩経」の全体の文脈を善く読んでいただきたいです。
> どういうものが法となっていて、何を捨てるのか、法とは何なのか。詳しくみていくと、実際にどうすれば善いかわかってくると思います。ブッダの言いたいことを、しっかりつかんで智慧をもってあたらねばなりません。

来週の火曜日以降でないと、仏典が手元にある環境にないので、火曜日にもう一度精査してみます。
しかし、向こう岸に着く前に筏を捨てて行けとは言ってないとは思いますが。


> ブッダの文脈をはずして、勝手に読むなら、春間さまのことを文句言えないことになるのでは?

仏陀の文脈を外して勝手に読むなら、そうでしょう。
それはどなたにも言えることです。
何かの予断を持って仏陀を読むなら、必ずその文脈を外すことになります。
大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。



> > そして、向こう岸に着いたら、捨てなさい、と言っています。陸地に上がってもなお筏を大事に頭に乗せたり肩に担いだりするのは愚かです。
> > しかし、向こう岸に着く前に、激流を渡ってる最中に、筏をどんどん捨てていけなどとは仏陀は言っていません。
>
> 渡ってみましょう。とりあえず。

ということは、先生は、既に自分は渡り終えたと思われているのですね。


 

  [No.21904] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 01:08:09


> > そうですか。
> > 四正勤とは精進のことです。
> > 精進=四正勤なのですが、精進も捨てろ、というのですね。
>
>
> そうです。何でもです。ですが、これも、ショ-シャンクさまは何か違うことを考えておられるかもしれない気がしますので、少し説明します。
> 具体的に四正勤を得て、使う場合が出てきますよね。
> たとえば、今までやってきた悪い行いを改めようとか思うときは、それが筏です。
> さらに、悪いことをやめて何か新しいことにチャレンジしようとするとき、善いか悪いか分からないようなものであれば、もはや四正勤では判断できないなと思えば、それを捨てて、違う法に依るか何かするでしょう。


私は、精進=四正勤を、向こう岸に渡る前に捨てていい法だとは考えていません。
四正勤は、八正道の正精進です。
八正道は、ガンガ-の流れが必ず大洋に流れ込むように、涅槃へ行き着くのです。
涅槃に到達する前に、勝手に自分の判断で捨てたり拾ったりするようなものとは違います。

そもそも、三十七菩提分法は、三十七個のバラバラな法、バラバラにしていい法、ではありません。
精進を捨ててみて、次は喜にしようか、とか、七覚支を捨ててみて次は四神足にしようか、とかいうものではなく、大きく言えば有機的なひとつの理法とも言えます。


> たとえば、禅をやってみたけれど、自分には合わないようだと思ってやめたとなるとき、四正勤ではちょっと判断つかないなと自分で思うなら、四正勤は使いません。

私は、大乗は、仏陀の残した筏=仏陀の理法 を捨て去ってしまったと思っているので、大乗仏教が筏になることはありません。



> なぜかと言えば、
たくさんの法をもってショ-シャンクさまは渡っているように見えるからです。
> 四正勤と七覚支と… というように、そんなにたくさんの法を一度に抱えていなくてもよいのではないか、と思ったのです。

そうでもないです。
七覚支が三十七菩提分法の中核でありほとんど包含していると私は見ているからです。

念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 が七覚支ですが
念は四念処、精進は四正勤、定は四神足です。


> といいますのは、一度に必要な法というのは、一つであって、たった一つであっても渡れるのじゃないかと思うからです。
> たとえば、七覚支などを見ても、他にも言われている要素がたくさん入っています。
> その時には、四正勤が必要かもしれないが、それを捨ててどうしようと思っていると、次に、違う五根が教えられて、五根で乗り切ったら、次に、八正道が教えられた、というように、必要なときに必要な法はやって来るようにできているし、四正勤を捨てたらもう駄目かというと、似たようなことが違うかたちで説かれている法はまだ他にたくさんあります。


それが先生のやり方だと言うことは理解しました。
どちらが間違っている正しいとは考えませんが、私のやり方とは違うというだけです。
私は、四諦十二縁起、四念処を順に瞑想します。
それで仏陀の理法の全体が見通せて、自我の成り立ちがわかるからです。




> 三十七菩提分法などとまとめられていますが、これらの法を憶えているだけでは、筏にはなりません。実際に使える筏とするには、一つ一つ実行してみなくてはなりません。



最も重要なのは、三十七菩提分法や四諦や十二縁起という仏陀の理法の解明、理解でしょう。
特に十二縁起は今まで解明した人がいないだろうくらい難解です。
四諦にしても、それを洞察することによって漏尽智に達するというのですから、とんでもなく深遠な理法です。
四諦は苦と苦の生起と苦の滅と苦の滅に至る道ですから、苦の全的な理解なくしては意味をなしません。
仏陀の理法そのものですから、向こう岸に至るまでに、四諦を捨てて十二縁起を拾って、また十二縁起を捨てて七覚支を拾って、というようなものではまったくありません。
四諦も十二縁起も今多くある解説のような表面的な理解では瞑想など出来ませんし、ましてそれによって苦の滅に至るなどできるはずがありません。


> 十牛図を使って禅を検討されたのも、筏になるかどうかを試されたのだと思います。
> どうも筏になりそうもないと知って、それを捨てられたのだと思いますが、向こう岸に着くまで善法(仏法)をもっていることは、筏の喩えにかなっているのかが、問題の論点ですね。



十牛図や禅の公案などは、学生の時に、興味があって見ていただけです。
筏になるとは思ってもいません。
ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。



> 分かったのですが、理法とは何かが分かりません。やはり「念じる」とあるのですから、具体的なものですよね。
> いつも理法の何を念じているのですか。どんな理法を念じているのですか。



十二縁起と四念処が主なものです。
十二縁起によって、無明により自我ができ苦の集積に向かっている有り様を洞察します。
四念処によって、身⇒受⇒心⇒法 が非我であることを洞察していきます。


> わたしは、そういう意味では、いつも縁起とブッダの論理を念じていますし、考えてもいます。あと、エゴの匂いに気をつけています。筏はそれかな?
> だから、「捨てろ」といわれたら、捨てなきゃと思うのです。


誰に捨てろと言われるのですか?
自分がそろそろこの法は捨てようと判断するのですか?



> 「筏を捨てろ」じゃなくて、「諸法を捨てなさい」です。

仏陀の理法が筏です。
先生にとっては、諸法が筏ではないのですか?


> ショ-シャンクさまは、何かわたしの述べていることをゆがめて執っているような気もしてきました。
> 筏の喩えというのは、ブッダの法なのです。
> 諸法無我の教えとつながっていくと思います。

私たちが苦の集積に向かっているのは主に『私という中心がある』という思い込みからです。
この思い込みを」滅するために、四諦も十二縁起も四念処も五蘊非我もあります。
その思い込みがなくなる前は、そのような理法は筏として必要なのです。



> > 大乗仏教の考えを『正しい解答』『絶対の正しさ』として原始仏典を読んでしまうと、大乗仏教の考えを投影したものを読んでいることになります。
>
> 「大乗仏教の考え」とは何でしょうか?
> 何かの考えを考えていますか?

これに関しては長くなりそうですのでまたあらためて書きます。

 

 

 

  [No.21908] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 07:39:20


> 全体的に、ショ-シャンクさまのお考えは分かりました。

私も先生のお考えがある程度わかりましたし、どこがどうして私の考えと違うのかもある程度わかりました。
どちらが正しい間違っていると言うことでなく、捉え方の問題でしょう。
あるいは、筏を仏陀の理法のみで出来たゴムボ-トのように思っているか、そこら中の木や草で作ったもので激流に流されながらも途中でその素材を替えていくことが出来ると考えているのか、の違いかも知れません。
先生のお考えも参考にさせていただきます。



> > ただ、今思うのは、禅の公案にしても大乗仏典にしてもあるいは最上の音楽にしても
> > それをいくら読んでも聴いても悟りには至りませんが、
> > 自分の意識が広がったときに心の底からわかるようになるということはあります。
> > そういう意味で、自分の心の状態を測るものにはなる気がします。
>
> 心の底からわかるのは何ですか。自分の心の状態ですか?

例えば、それまでどうしてもわからなかった音楽、例えば、マ-ラ-の第九交響曲が心の底からわかって感激するとか、禅の公案でどうしてもわからなかった『牛過窓櫺』の公案が、あるときその意味の全体がわかったとか、『百丈野狐』の公案で、なぜ黄檗は師匠の百丈を殴ったのか、百丈は弟子の黄檗に殴られてなぜ手をたたいて笑ったのか、そのからくりがはっきりと頭に浮かんできたりします。
それはそのことを考えていたわけでもなく、意識の広がったときに自然と理解できたりする体験が複数あるのでそう書きました。


 

 

  [No.21912] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/20(Sun) 08:37:48



> 「木や草で作ったもので素材を途中で変える」というところです。
> 木や草には、ブッダの法も入っています。それをつないだ筏は、一応、筏なのです。
>
> その筏で渡りきるわけです。素材は変えてる暇はないだろうと思いますね。

それはまさしくそう思います。
私は、激流を渡っているときに素材を替えているいとまはないと思っています。
ただ、先生が『筏ではなく筏の素材』とか『筏はもしかしたら丸太の浮き橋かもしれませんね。次々と渡りながら、それが捨てられ切れて壊れていくのかもしれないですね。』とか書かれていたので、筏の素材を次々捨てては替えていくことを想定されていると思いました。
私はもとから、仏陀の理法で作った筏は、向こう岸について陸地に上がるまでは、捨てたり替えたりするものではないということを言ってきました。

 

 

  [No.21924] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/21(Mon) 10:41:03


> > 向こう岸は、完全な悟りの世界ですか。
> このように書いたのは、理法をあつめて作った筏によって渡るのなら、それを渡れば、別の河が待ってるような、そのようなものではなさそうだと思うのと、やはり「法」ということに対する意識の違いがあるのだろうと思うからです。


それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
これは、激流というものを本当に観たときに、本当に実感したときにわかるものです。
向こう岸が完全な悟りだから再び激流に巻き込まれることはないというのは、激流がなんなのか、激流がどうやって激流となったのか、ということを実際には知らない者の言うことだと思っています。
何回か悟ってもいつも元の木阿弥になった弟子がいて、次に悟った時に自殺します。
それほど、この肉体、感覚がある限り、いつ再び激流に巻き込まれてもおかしくありません。



> 「法」ということばも、多義です。
ショ-シャンクさまは、ブッダの教えという意味で用いられているようですが、
> わたしは、その「教え」という意味だけではなく、ただ、ブッダが語った「ことば」という意味も含めて用いています。
> 自分にとって有効なことばは、みな法です。

私も、仏陀が語った言葉は、みな仏陀の教えだと思っていますよ。
私が『仏陀の理法』と言う場合は、仏陀の教えの中でも、仏陀自身がダンマパダや大般涅槃経などで常に受持するように語った理法、具体的には、四諦や四念処や七覚支のようなことを指します。


> それなので、確かに浮き橋のときもあれば、筏のときもあり、中洲のあるときもありで、いろいろあるだろうと思っています。
> あらゆることを想定しつつ、いろいろ模索しているのです。
> 逆に、そうなると、ショ-シャンクさまにとっては、「筏の喩え」は法ではなくて、ただ喩えということだったのかもしれないと思ってきています。


筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
向こう岸に渡っていないときのことではありません。

私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
そう考えると、先生がここまで向こう岸に渡る前に諸法を捨てるということにこだわっておられる理由がはっきりします。
つまり、仏陀の言葉の数々をとらわれることなく取捨選択していき、向こう岸に着こうということなのではないですか?
そして、ついたときには既にそれらの言葉の数々は『寂滅』しており、『寂滅』していなければ、向こう岸に着いたとは言えない、と思っておられるような気がしています。